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154国会 憲法調査会会議録 2002年04月24日(抜粋)
○山下栄一君 よろしくお願いします。
参議院の憲法調査会では今日から基本的人権に対する議論が始まったわけで、最初に先生に来ていただいておるわけでございますけれども、初めに私、教えていただきたいことがありまして、それは、基本的人権という、また人権という考え方は特にそうだと思いますけれども、明治以降、日本にそういう考え方が入ってきたということだと思うんですけれども、これも元々はライトとかヒューマンライトという言葉を翻訳する作業が幕末とか明治初めとか自由民権運動の時期にあったと思うんですけれども、いわゆる欧米で言うところの人権、ヒューマンライトという言葉の意義なんですけれども、日本では権利という言葉を、権利ばかり主張してというふうな言い方もありまして、何か自己主張というか、自分ということをまず厳然とあってというふうな考え方があるように思うんですけれども、私は本来、欧米の方で言っていた人権というのは、人間の権利というのは、権利の行使においては責任が伴うんだというふうなことが元々あったのではないかというふうに考えるんですけれども、それが本来、人権というものなんだと。権利という言葉、概念、理念というのは責任が伴うんだという、それが本来の考え方であると、このように信じているんですけれども、先生の見識として、いわゆる日本で言う人権という、翻訳したわけですけれども、その言葉の元々の意味、これをちょっと教えていただきたいというふうに思います。
○参考人(戸松秀典君) 私は人権思想の研究をそんなにやっているわけでないし、言葉の意味を追求したこともございませんが、ちょっと切り返してで申し訳ないんですけれども、本来の意味がどうであったからどうであるという議論をするときには、現状を何か変えたいためにおっしゃるのか、それとも単にその言葉の語源を探るかという、その目的によって変わると思うわけです。
基本的人権の権利、人権という言葉が、少なくとも明治憲法時代からいえば百年は過ぎますから、それでずっと定着してきて、およそ概念上、定着しているところを、それはそれとして、基本として義務の要素が欠けているなら、立法でそれに対する対応をすればいいことで、本来何であるからということでやる必要はないんじゃないか。現在、国民に義務的な要素が欠けているから、それに対する対応をすればいい、そういうことによって人権の保障の実現がするという、こういう発想でいいんじゃないかという気がいたします。
でないと、本来、人権というのはさかのぼると、ドイツ語ではメンションレヒトと言っていたり、ヒューマンライトと言っているのは何かという、欧米にさかのぼってそれをやっていって何が生まれるかという気がします。外国語は、外国の言葉は、それは何かで出発して、それで発展をしておりますから、そこにさかのぼったからといって、外国語は外国語でそれなりの展開をしているはずですから、展開していることを捨象して元に戻ったって仕方がないんじゃないかという気がいたします。むしろ、生産的な議論をするには、こういう議論の方がいいんじゃないかというふうに私は思っております。
○山下栄一君 もう先生のおっしゃることは、一貫してそういうことをおっしゃっているわけですけれども、私は、日本の権利に対する言葉の感じ方、とらえ方が、やはり主張の方が強くて、余り義務とか責任という面が弱いのではないかという、そういう感覚を持っておりましたもので、本来、本来といいますか、そういうヨーロッパとかアメリカではどういう考え方でこういう言葉が使われておったのかなということを教えていただければと思いまして質問いたしました。
次に、この人権保障、今日のペーパーの三番のところでしょうか人権保障の展望のところに、社会の変化に応じて、例えば環境権とか知る権利とかプライバシーの権利とか、こういうことを憲法改正によって人権保障規定の中に入れたらどうかという考え方はあるけれども、だけれどもそれは、そういう大変エネルギーが要るようなやり方よりも、立法による憲法秩序の形成という、そういうふうな在り方の方がいいのではないかというお考え、私もそのように感じておるわけですけれども。
私、もう一面、大変エネルギーが要るようになっている背景というのが、国民が立法府、具体的に言うと政治家とか政党とか、そういうものに対する非常に不信感があると。特に、日本は非常に行政主導型、官主導型という言葉がございますけれども、役所に対する不信感といいますか、そういうものが基本にあると。今も大変あると。最近、特に様々な不祥事、余計そういうことになっていると思うんですけれども、これは別に立法、行政に限らず、例えば司法の面でもそうではないかなとは思いますし、司法におきましても司法制度改革で、国民参加型の司法制度というふうなことで今制度化が進んでおるわけですけれども、基本的に私は統治機構に対する不信感が国民に非常に強いと。
だから、せめてこの基本的なルールである憲法は変えたくないといいますか、それを変えられたらもうたまらぬという、そういうものがまずあるから、この憲法改正に対する非常に慎重な姿勢になっておるのではないかというふうなことを感じるんですけれども、この点についての先生のお考えをお聞きしたいと思います。
○参考人(戸松秀典君) 憲法改正に対する消極的な態度が国民のどういうところにあるかというのは、私は実証的にきちっと研究したことはございませんので、どうとも言いません。
それから、不信感というふうにおっしゃられましたけれども、まあ不信感があるのかもしれませんが、しかし、国民主権原理の下では国民が最終的には責任を負うんですから、その不信感を持っていておかしくなれば、それは国民が責任を負わざるを得ないというふうに思っておりまして、だから、憲法改正に対してというふうに本当につながるのかどうかというのは私は分からない、お答えのしようのないという、これしか言えないことだと思っています。よろしく。
○山下栄一君 よく分かりました。済みません。
次に、子供の人権ということなんですけれども、今家族の崩壊ということが言われて、生みの親が自分の子供を殺すというふうな事件もセンセーショナルに報道されております、児童虐待。また、これは家庭の話ですが、学校におきましても、今まで一応子どもの権利条約は日本は批准はしているわけですけれども、学校現場におきますと、小学校、中学校、高校、大学でもそうかも分かりません、いわゆる教師と生徒の関係の中で特に特別権力関係というふうなことが言われた、今、最近そうではないらしいんですけれども。
例えば、行政不服審査すらそういう学校の世界では適用除外になっているというふうなことにも表われていますように、子供の側に立った権利、人権の主体者であるというとらえ方が非常に日本の場合は弱かったのではないかというふうに思うわけです。一個の人格として尊重するというものが非常に弱いというふうに思っておるわけですけれども。
先ほどおっしゃっていただきました人権保障の特徴と課題という、ここはどちらかといいますと制度的な面でそういうふうにおっしゃったとは思うんですけれども、子供の人権という観点の日本の発展が非常に後れているというふうに私は感じるんですけれども、その辺に対する先生の御感想をお聞きしたいと思います。
○参考人(戸松秀典君) 私もあるところで、具体的に言いますと、東京都の人権施策についての提言を会長として求められたことがありまして、少年の人権の扱いについても各団体、いろんな考え方の意見を聴取したことがございまして、その経験からいいますと、これは非常に悩ましい問題だということがまず第一です。
私は、子供の人権を保障すればいいという、子供の人権というのをなるべく尊重すれば今の様々な社会で起きている問題が解決できるかというと、これはないんじゃないかと。子供の権利というふうに言うことによって、むしろ家庭、親子の関係を害するとか、先生と子供の関係を害するという、こういう面があるという、こういう考え方の人がいまして、その人の言い方も私は非常に説得力があるんじゃないかという気がいたします。
この点は、アメリカの少年に対する扱い方の制度を導入しようとすることに対しての大議論がありまして、アメリカという国は常に揺れておりまして、激しく子供の人権を保障するようなやり方をやったりそうじゃなかったりと試行錯誤しているんですけれども、それを直ちに日本に、アメリカの人権保障型の少年待遇にする、保障型のものを取り入れていいかどうかというのは考え直した方がいいという方に私は大変興味を覚えている。なぜかというと、日本の家庭像というのは独特のものが伝統的にあって、それを基にした子供の処遇というのをまず考えるべきじゃないかというふうに思っていますので。ただ、そこから先はどうしたらいいのかは分からない。非常に悩ましい。
だけれども、子供人権派の方は、虐待の場面を見ると、それは親子を切り離して子供を保護しなくちゃいけないじゃないかという、この実態を非常に強く示されます。それはそれで私も納得しますので、この点は私はどっちかというふうには言えなくて、非常に悩ましい問題だけれども、だけれども子供の権利を保障すればすべて済む問題じゃない、そういうことじゃないかという感じを持っている。この程度のお答えしかできません。
○山下栄一君 これ、議員立法で児童虐待に関する法律というのを立法府として努力をして作ったわけですけれども、そういう形で親権ということを表にした考え方は基本にはあるわけだけれども、やはり社会的にサポートする仕組みを作ろうという動きが出てきたということも大きな前進かなというふうに思っておりますけれども。