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国会質問

151国会 予算委員会公聴会会議録 2001年03月15日

○山下栄一君 きょうはありがとうございます。
 時間がございませんので、端的にお伺いしていきます。
 クラーク先生にお伺いしますが、英語教育です。
 先ほど貴重なお話をいただいたんですけれども、入試科目に英語を入れるということが非常にまずいのではないかというふうにも私はお聞きいたしました。語学としての英語教育は大学に集中したらどうだという、私もなるほどなというふうに思ったんですけれども、読み書きそろばんというような言葉があるんですけれども、日本語もそうなんですけれども、読み書きそろばんプラス話す、話すということですね。
 言葉は、特に口と耳が大事だというお話がありましたが、私は、この話すということを日本はちょっと軽視してきたのではないか、軽んじてきたのではないかというように思うんですね。自己表現するコミュニケーションが、今コミュニケーション不全という言葉がありますけれども、非常に対話が成り立たないような社会になりつつあるということから、もう一度日本語も含めて語学の、きちっとした語学を学ぶ、教える重要性がますます高まってきているのではないかというように思うわけですけれども、先生の御提言は私ももうなるほどなと思いまして、英語は非常に楽しくない、おもしろくない、そういう英語になってしまっていると。それは、やっぱり入試という試験科目にそれを取り入れたからではないかというようなことをお話を聞きながら感じました。
 話すことを、また話す楽しさを、また言葉で通じることの楽しさを味わわせるために、小学校から英語をやるとしても、それは会話中心、話すこと、聞くことというようなことの方がいいのではないか。入試に英語を入れるということ、なるほどよくないなということを感じたわけですけれども、読み書きそろばん、話すと、私申し上げましたけれども、この語学教育における話すことの重みと言いますか、それについてちょっと先生の所感ございましたらと思います。


○公述人(グレゴリー・クラーク君) 口と耳の英語の意味は、楽しくさせるよりも、これは根本的な問題なんです。言葉の能力、私、長年の経験でだんだんわかってきました。これは人間の本能的な能力なんですよ。学問的な能力ではないです。自転車乗りとかボール投げと同じなんです。教科書でボール投げを覚えるのは不可能でしょう。だから、意味はないです。自転車乗りも同じです。経験でやりながら自然に身に、体につけるんです。偉い学問だったら赤ちゃん、そんなに早く覚えられるはずはないです。これが問題なんです。
 スタートの時点で読み書きばかりだったら、自分の頭の中で間違った場所で能力をつくるんです。つまり、本能的、無意識ではなくて意識でつくるんです。そうすると、後で直すのは非常に難しいんですよ。
 よく日本人の方から聞いて耳にするんですけれども、考えてしゃべるんです。もともと考えて自転車に乗ることはないです。自然にしなくちゃならない。だから、スタートの時点で頭の中のコンピューター、言葉はコンピューターと同じなんですよ。正しい場所に入れるために、口と耳の英語も必要なんです。もちろん同時に読み書きとか大いにやってもいいですよ、全部。
 しかし、もう一つ、皆さん、入学試験の英語ごらんになったことありますか。もう信じられないぐらい難しいんですよ。うちの英語教育改善委員会では、だれか早稲田大学の入学試験を、英語試験を持ち出したんですよ。長文があるでしょう。あの長文の千二百ワードの半分、つまり六百ワード、一つのセンテンスだったんです。つまり、六百ワードの中でピリオド一つもないです。私、三回読んでも私も意味わからなかったんですよ。結果は、いや、これは英語試験ではなくて、英語先生のエゴ試験ですよ。自分の試験は東大より難しくて自分は東大より偉いんですよ。
 それで、そのために一生懸命準備しなくちゃなりません。だから、口と耳の訓練をしようとしても時間がなくて、いろいろの意味では読み書きへの偏重が弊害ばかり与えるんです。私、全く先生と同感です。


○山下栄一君 入学試験に英語を取り入れることによって国際化を図ろうというその根本的姿勢がおかしい、かえってそれは国際社会から落ちこぼれるんだという非常に大事な指摘であるというふうに感じました。
 それと、ちょっともう余り時間がないんですけれども、もう一点お聞きしたいんです。
 国家と教育のかかわりなんですけれども、私は教育を受ける権利というのは社会権的、基本権的な教育のとらえ方だと思いますけれども、教育を受ける権利と同時に教育の自由というか自由権的基本権としての教育活動、事業というとらえ方が大事なんではないかと、同じ比重だと私は感じているんです。
 冲永先生とも、両方の公述人にお聞きしたいんですけれども、要するに日本が明治に入ってから国家主導型で教育というのを行ってきたと。義務教育もそういう一つの形かもわかりません。ただ、明治以前は、もう教育は私というか、政府とか、そういう国が主導してきたのではなかったと思うんですね。わずか百年ちょっとの中で国家主導で教育を行ってきたのではないかというとらえ方をしているわけですけれども、本来、教育というのはそういう思想、良心の自由にかかわる、人格にかかわる営みなわけですから、やはりこの自由権的な基本権としての教育の自由というとらえ方が大変大事なんではないかというふうに思っているんです。ともすれば国家のための教育になりがちな今の青少年問題の中で、もう一度国家と教育のあり方というのを問い直す必要があるのではないかと、こう感じておりますけれども、それぞれ所感をお伺いしたいと思います。


○公述人(冲永荘一君) 江戸時代には寺子屋制度があったというわけでございますし、それは全く私人が行っていた、自分の教養を上げるために、あるいは自分の事業、商売を円滑にするために、町民はそうだったと思います。武士は藩校があったわけですから、藩で、あるいは藩校に行かないというとちょっと問題があるいはあったかもしれません。でも、塾があって、そこのところに、塾に通う人もあったわけでありますし、殊に蘭学塾なんというのも非常に盛んになったと、こういうわけであります。新しい知識を得ようと、こういう当時の鎖国の中でそういう方もたくさんいたというわけでございまして、日本人というのはなかなか向上心の大きい国民であるということは言えると思います。
 明治の最初のころは、これはむしろフランスとかアメリカとかイギリスとかの教科内容であったと。ところが、大学令ができた後からいわゆるドイツ主流になり、国家主義的なもののことが始まると。国家主義的な内容にして、いわゆる道徳教育というんでしょうか、当時の国粋教育というんでしょうか、当時の観念での忠君愛国ですね、を道徳として教え込んだ、こういうことになるわけですけれども、戦後それは非常に大きく変わったわけでして、日本人全員がある程度の強制力を持って読み書きそろばんだけは全員がわかるということをまず最低基準として持たないと、やはり国際社会の中で落ちこぼれになるんじゃないかなという気はいたします。
 それから、あとはその国で決められたいわゆる指導要領ですか、というのがあるわけで、これを余りかたくなに守る必要は私は全くないんじゃないかと。これはあくまでも最低基準であって、それよりも余計にやった人、子供に対してはやはり何か褒美を与えてやらないとインセンティブはわかないわけで、何かの形で褒美を与えてやってその最低基準より上のものを目指すということはもう大いにやってしかるべきと、そこにまた私立学校の存在があるんじゃないかと、こういうふうに思っています。
 それからもう一つは、その最低基準に達するように殊に公立の先生は大いにひとつ努力してほしいということでありまして、授業が終わりましてもそういった生徒を集めて一生懸命勉強させるという情熱のある、教育は情熱ですので、そういう情熱のある先生が多けりゃ多いほどいいなと、こういうふうに思います。


○公述人(グレゴリー・クラーク君) 時間がないですけれども、正直申し上げれば、外国だったらアメリカ、オーストラリア、ある程度イギリス、は国の教育に対しての介入は日本よりも多いんです。というのは、さっきおっしゃられたように、私立大学が、特にオーストラリアは非常に少ないんです。ただ、制度は柔軟であって、一生懸命勉強させる、インセンティブもいっぱいあるし。
 国が指導的な役割を果たすのはそれは別に悪くないけれども、一つだけ、日本の場合は義務教育を十二歳でやめればどうですか。その後で本人の意思の上でやればいいのではないかと。


○山下栄一君 ありがとうございました。

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