155国会 憲法調査会会議録 2002年12月04日
○山下栄一君 私は、ちょっと教育基本法の改正問題を取り上げたいと思います。先ほど松山委員からも少し触れられました。
私は、今、中央教育審議会、文部大臣の諮問機関で行われている審議会でも扱われているわけですけれども、そこで教育基本法、全般的な改正を視野に入れた議論が行われているわけですけれども、ちょっと私は、教育の現場や国民的なとらえ方からちょっとずれているんではないかと。非常に上滑りした状況の中で議論が進んでいるように感じます。
今日の教育の根本的揺らぎ、これは法律がおかしいからか、法律改正したらというふうな、そういうこと自体が非常に教育を軽視しているというか、ゆがめているというふうなことを感じるわけです。元々、この基本法の成立の経緯もしっかり検証する必要があるのではないかというふうに思います。憲法制定と一体的に議論されて取り扱われたという、重みを持って取り扱われてきました。準憲法的位置付けとも言えるような、そんな位置付けだったというふうに思います。
戦後、新しい国のスタートに当たって、日本人の骨格、新しい日本人像を新しい価値観の下で示すことが必要であるとされたわけです。新しい価値観というのは、当時の人にとって非常に新鮮な国民主権とか基本的人権の尊重とか、こういうことが非常に当時の国民には新鮮にとらえられた時代の中で、そういう新しい価値観の下で新しい日本人像、骨のない日本人は駄目だという観点から議論されたと。教育勅語に代わるものを示す必要があると。教育勅語の有用性そのものも議論されたわけですけれども、そんな取扱いがされたわけです。
したがいまして、この基本法を改正することについては、私は憲法的な取扱いが必要なのではないかと。通常の法律改正手続でいいのかという、そういう根本的な議論をする必要があると。場合によっては、こういう憲法調査会、両院にある憲法調査会でその改正問題の扱い方も議論をする必要があるのではないかというふうに思います。と同時に、そのころ、教育というのは国がどこまで関与できるんだということも併せて議論されました。敗戦、戦争に日本が負けたことも国家主義的教育の誤りが敗戦を招いたのではないかとか、また教育が思想統制の道具として使われたとか、そんな議論もされる中で、教育については不当な支配に服することがあってはならない、時の権力に左右されてはならない、権力から距離を置いて教育というのは扱うべきだという議論もされたという背景がある。そういうことの重みもしっかり私たちは受け止める必要があるのではないかというふうに思います。
公明党は、基本法改正問題については極めて慎重な取扱いしておりますし、国民的な、全国民的な議論の広がり、深まりが必要だ、まだまだコンセンサスがそこに至っておらないというように思うわけです。
そういう意味で、国民的議論という面からも、国権の最高機関である両院に置かれているこの憲法調査会の議論にふさわしいのではないかというふうに思いますし、この基本法改正問題というふうに矮小化してはならないと。
社会全体の教育力が低下している。その原因は一体何なんだと。学校の教育力、そして地域、企業、また議員そのものの教育力も低下しているかも分かりません。家庭の教育力も低下している。そんな中で、この教育の重みといいますか、先ほどからも教育の話出ていますけれども、教育という言葉そのものにもいろんな理解の違いがあるように思いますし、学力という言葉も知的面に偏重しておるようなそんな学力のとらえ方もありますし、そういう教育とか学力とは一体何なんだという国民的コンセンサスを深める、共有化するための議論、私、必要だというふうに思います。教育力の衰弱への国民的問題意識の共有、このことがもっと必要だというふうに思います。
人を育てることがいかに大事かと。人間は教育によって人間になるんだという、そういうことの重みをもっともっと自覚することが今最も大事なこの教育問題への取り組み方ではないかというふうに思います。
繰り返しますけれども、教育基本法改正を通常の改正手続、審議会で原案を示して、一つの委員会でルールにのっとって処理するというふうな扱いであってはならないというふうに考えるものでございます。
以上でございます。