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国会質問

156国会 憲法調査会  2003年02月19日


○山下栄一君 お二人の参考人の方にお聞きしたいことが、特に家庭、家族ということの役割、意義、重要性という観点からお聞きしたいことがございます。
 申先生がおっしゃっている、子供の人権の観点からも、男女がともに家庭責任を担える社会の実現が焦眉の課題というふうにおっしゃっておりますけれども、私も焦眉の急ということでは同じような認識なんですけれども、男女共同参画社会、家庭の中で男女共同参画ということが物すごくやりにくくなっているというか、いろんな背景があると思うんですけれども、私は、もう一度、人を育てるとか子供を育てる、後継者を育てることがいかに大事かということが問われているなというふうに思っています。
 動物も大体やっぱり後継者をちゃんと育てて、使命を終えて死んでいくわけですけれども、人間も社会的動物という観点からしますと、我が子を育てる両親の役割ですけれども、これが問われているんではないかなというふうに思います。それは母親だけではなくて父親も共同参画で必死になってやらないと、やっても育たないかも分かりませんけれども、そういうことをやっぱりもう一度見直す必要があるんじゃないかなということを物すごく感じます。
 今、子供が育ちにくい世の中にどんどんなっていっているように感じるわけですね。それから、家庭も地域も企業社会も、学校もそうかも分かりませんけれども、直接的な触れ合いということがどんどん希薄、薄くなっている。それはIT社会とか様々な文明社会の発達ということがそういうことをもたらしたかも分かりませんけれども、大自然の人を育てる役割、私はあると思うんですけれども、その自然を破壊しているから更にそういう人が、子供が育ちにくい、どんどんそういう環境に先進国はなっているというふうに思っています。そういう意味で、社会の原点である家族、ここにもう一度焦点を当てた、それも両親が共同で必死になって子供を育てるということをやらないかぬのではないかなというふうに思います。
 そういう意味で、そういうことを可能にするような、先ほどおっしゃった、例えば育児休業の保障も含めて見直す必要があるというふうに思うんです。最低の責任として後継者ぐらいはちゃんと育てろよと。それは学校に任せたり保育所に任せたりという、そういう支援は大事なんですけれども、原点としてそこは両親にあるんだということが、非常に再確認する必要があるのではないかというふうに思っております。
 家族というものができたのは、哺乳類の中でも、特に人間が誕生してから家族というのが成立したんだという家族人類学の話もあります。雄が父親になる、それは人間からだというようなこともなるほどなと思ったんですけれども。
 そういうことも含めてもう一度、子供を育てる責任は第一義的には両親にあるということの、そのためにも男女共同参画社会というのが極めて大事だというふうに思うんですけれども、その点の私の考えなんですけれども、申先生はどのようにお考えでしょうか。


○参考人(申ヘボン君) おっしゃったことに全く同感でございます。
 ですから、子供は両親が育てる責任があり、両親がかかわらなければならないわけですが、現在の日本の育児環境では、先ほど申しましたように、父親の長時間労働等によって主に母親にその負担が掛かり過ぎていて、そこにゆがみが生じているというのが実態ではないかというお話を申し上げました。


○山下栄一君 ありがとうございました。
 子育て支援とか保育所の充実とか、アウトソーシングの体制をどんどん、子育てのアウトソーシングですけれども、そういう体制作りは、支援は物すごく大事な時代ですけれども、その前の確認が大事だということを物すごく感じますので申し上げたわけです。
 それで、これに関連して平松先生にお聞きしたいんですけれども、宗教、道徳の役割、特に先生の場合は家庭内の規範をもう一度作っていく必要があるのではないかなというふうな意味のことをおっしゃっていたと思うんですね。共同体の規範を目に見える形で示すことが憲法の前提として地域規範、家庭規範というか、それは慣習法的なものかも分かりませんが、そういうことを目に見える形で示す必要があるとおっしゃっているんですけれども、例えば家庭の規範というのはどういうことを目に見える形で示すべきだと、中身ですけれども、規範の中身ですけれども、おっしゃろうとしているのか。そのまた表し方についてお聞きしたいと思います。


○参考人(平松毅君) ありがとうございました。ただいまの御意見、私も同感でございます。
 家庭には家庭の論理があります。ところが、我々は社会における例えば家庭内の紛争というものをすべて裁判とかいうふうな外の規範に基づいて解決しようとしております。
 以前、こんな事件がありましたが、ある人が、夫が家庭内にピストルを屋根裏に隠していた、妻がそれを警察に告発した、そこで夫はその妻を離婚した、そこで妻はこの離婚を争ったという事件におきまして、裁判所は、家庭内には家庭内の規範がある、夫が罪を犯した場合にはそれをかばうのが妻の役割である。これは法律には反するわけです。しかし、家庭には家庭内の規範がある。これを、このような原則はイタリア憲法には補完性の原則として規定されておりまして、ドイツにおきましてもそれは憲法原則とみなされております。
 すなわち、家庭内の問題は家庭内でまず解決する、そこには国の法律は入ってきてはいけないんだと。そういうことを確保するために家庭裁判所という非公開の機関があるわけで、家庭裁判所は国の法律ではなくてお互いの合意に基づいて、家庭内の規範に基づいて解決すべきであると。そして、解決できない場合に今度はそれを地域共同体の規範で解決する、なお解決できない場合に国の法律によると。こういうふうな段階構造というものが補完性の原則でありまして、この原則というものは我が国においては採用されておりませんが、こういったふうな原則を考える必要があるのではないかと考えております。


○山下栄一君 ありがとうございます。
 ただ、家庭の規範を形成する力がどんどん弱くなっているというふうに思うわけですけれども、もう一点ちょっとお聞きしたいことは、日本の憲法には教育を受ける権利というのがあるわけですね。学習権と同じではないのかも分かりませんが、これは物すごく大事だと思うんですけれども、私は社会権としての教育を受ける権利と、もう一つ、教育の自由といいますか、そういう観点を確認する必要があるのではないかなと特に感じております。
 それは、教育活動というのは本来、特に子供に焦点を合わせましたら、それは本来はやっぱり両親にあると。国とか地方自治体ももちろん学習権を保障するために様々な施策が必要だとは思うんですが、その前に、教育の自由といいますか、そういうことも憲法的な観点として大事なのではないかというふうに思うんです。
 特に、宗教とか道徳にかかわる、今、道徳教育と叫ばれておりますけれども、この観点は特に、社会権規約ですか、国際人権規約の方にも書いてあるというふうに私は思うんですけれども、両親並びに保護者は、我が児童を宗教的また道徳的教育を行う権利を確保すると、そういう自由を有しているんだというふうな意味のことが国際人権規約A規約に書いてあると同時に、また世界人権宣言でも、冒頭申しましたけれども、子供を育てる権利は第一義的には両親にあるんだという、本来そこが担うべきことを、日本の場合でしたら明治以降、国家が乗り出していって義務教育制度とかそういうことをやっていったわけですけれども、本来、子供を育てる義務を伴う権利というのは両親にあるという、私的教育の自由といいますか、そういうことが確認された上で教育を受ける権利という、両面あるのではないかと。社会権的な教育権ということと自由権的教育権というか、そういうことを物すごく感じるんです。
 道徳教育を叫ばれれば叫ばれるほど、それは国がやることかと。確かにモラルは低下しているけれども、それはまず両親ということを、担わにゃいかぬというふうなことを確認することを国際社会はやっているというふうに思うんですけれども、日本の社会ではそういう意識が弱いのではないかなと感じているんですが、お二人の参考人からそれぞれお考えをお聞きしたいと思います。


○会長(野沢太三君) まず、それでは平松参考人からお願いします。


○参考人(平松毅君) ただいまお話ありましたように、教育を受ける権利の前提といたしましては、教育の自由、これを我々は学習権と呼んでおりますが、個人が自分の力で自分の能力を発展させる自由でありますが、こういうものがあるわけです。
 しかし、ヨーロッパにおきましては、この自由ということが両親の宗教教育の自由というふうに受け取られまして、両親が自分が信仰している宗教の学校に子供をやる自由というふうにみなされまして、そして、その結果、そのような宗教教育の自由というふうに実際には機能したわけであります。
 ところが、公教育にはやはり宗教教育とは違った機能がある。したがって、宗教教育を行っているものに対しましては公金を補助しないという規定が設けられまして、それが日本の憲法の八十九条に受け入れられたわけであります。日本におきましては、そういったふうな伝統がありませんので、親の教育の自由というものが説かれる場合に内容がはっきりしておらないわけです。したがって、何が教育の自由かということにつきましても、人によって様々な見解が説かれております。
 しかし、基本的な考え方としましては、教育の自由というものがあって、それを補完するものとして公教育があるという考えには賛成でございます。


○会長(野沢太三君) 申参考人、お願いします。


○参考人(申ヘボン君) 教育の権利というものが、社会権でありながら父母にとっての自由権の側面も持つという指摘はそのとおりであろうと思います。
 ただ、その点につきましては、道徳教育といいますと、やはり子供に何か社会なり国なり父母なりが一方的に教え込むという形になりやすい面もございますので、その点は、日本が現在入っております子どもの権利条約、いわゆる児童の権利条約に沿った原則に基づくことが必要であろうと考えております。
 児童の権利条約には、第三条に子供の最善の利益という一般原則の規定があります。つまり、子供に関する措置を取る際には、まず子供にとっての最善の利益を考えるべきであると、親とか国ではないということが書かれております。
 それから、教育に関しては、特に二十九条に教育の目的という条文がありまして、「締約国は、児童の教育が次のことを指向すべきことに同意する。」とあって、児童の人格、才能並びに精神的、身体的な能力を最大限度まで発展させることでありますとか、あるいは二十九条の一項(c)というところには、児童の文化的アイデンティティー、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成することといったものが入っております。
 ですから、こういった児童の権利条約の条文も踏まえながら、何が望ましい道徳教育であるのかを考えていく必要があると思います。


○山下栄一君 よく分かりました。

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