Home プロフィール 主な政策提言 国会質問 活動レポート 市民相談コーナー 情報BOX リンク集 事務所案内 ご意見

国会質問

156国会  憲法調査会公聴会会議録 2003年06月04日


○山下栄一君 今日、四人の公述人の皆さんに感謝申し上げます。
 こういう機会はそんなにないというふうに思いますし、そういう意味で、特に憲法の議論を本格的にやり始めて何年かたつわけですけれども、五年をめどにこの憲法の問題について、衆議院、参議院それぞれで意見をまとめようということで、今、約半分過ぎたという状況なんですけれども。
 今日、特に午後につきましては、さきの大戦を経験された方、尾形参考人、それから広島の、被爆地広島の代表として加藤公述人が来ていただいたわけでございます。また、世代の代表という意味で、若い世代を代表として田中公述人が来ていただきました。畠山公述人は、識者の代表でもあると思いますけれども、また世代の代表という意味でもあると思うんですけれども。それぞれ意義のある私は今日は公聴会になっているというふうに感じておりまして、来ていただいた皆様方に心からの感謝を申し上げます。
 私、午前と午後、聞かさせていただきまして、この憲法の平和主義、大事な日本の憲法の根幹を形成する考え方なわけですけれども、身近な問題としてちょっと全公述人にお聞きしたいんですけれども、暴力という問題でございます。
 戦争は大変な暴力の極致ともいうべきものだと思います。人を殺すことが正当化される。特に、この暴力に対する不感症といいますか、痛みが感じにくい、そういう今、時代状況ではないかなというふうに感じております。
 最近、議員立法で児童虐待防止法という法律作りました。また、家庭内暴力、ドメスティック・バイオレンス、DV法という法律も作りました。また、子供の世界におきましては、陰湿ないじめというのが小学校、中学中心に三万件、これはもうほとんど減らない状況ですし、校内暴力も、暴力の形態を変えておるけれども、ますます増えております。こちらの方も三万件を超えているという、そういう状況でございます。青少年の凶悪犯罪も、凶悪犯罪は特に増加する一方であります。
 イラク戦争もそうですけれども、ハイテク戦争で余り実感がわかない形で悲惨、残酷の極致とも言われる戦争がテレビで放映され目の当たりにするという、そんな状況の中でこの暴力についての非常に感覚がどんどん鈍っているのではないかと。足を踏んだ方は余り、鈍感だけれども、踏まれた方は絶対忘れないという、そういう意味では他者への配慮というようなものもこのごろ物すごく鈍くなってきているというふうに思います。
 家の中でも地域でも、特に学校の校訓なんかもそうですけれども、暴力は絶対駄目だと、こういうことをどれだけ徹底されているかというふうに言われますと非常に心もとない。我が家でもそうかも分かりません。家の中でそういうことを教えているのかというふうなことを考えましたときに、暴力というのは絶対悪だと、強そうに見えるけれども、それは弱さの象徴なんだというようなことも含めて、この暴力についての意識をしっかりとやっぱり育てていくというところから、そういうことを取り組むことが私はこの平和主義というふうに直接つながっていくのではないかというふうに感じておりまして、私は倫理観が、暴力は絶対悪だという倫理観が非常に育ちにくい、そういう今環境にあるというふうに思っておりまして、平和は勝手に来ない、作るものであるというふうに考えますときに、この暴力に対する考え方をもう一度国民的な問題として取り組むことがこの平和主義の議論につながるのではないかと感じるわけです。
 こういう考え方につきまして、それぞれの公述人の方から御意見をちょうだいしたいと思います。

○会長(野沢太三君) どなたから行きます。


○山下栄一君 順番で結構です。


○会長(野沢太三君) 順番ですね。
 それでは、尾形公述人からよろしくお願いします。


○公述人(尾形憲君) 暴力についてということなんですが、例えばアメリカでは五段階に分けてテロ警戒レベルというのがありまして、ついこの間、第二段階までは行ったが、またその後、第三段階になったりなんかしました。
 先ほど申しましたように、あれだけ絶大な武力を持っていながら、アメリカは民衆の安全は確保できなかった。したがって、暴力といいましてもいろんな形の暴力があるわけでして、これに武力でもって対処するということはできないということを先ほど私申し上げました。
 大体、今日のテーマの「平和主義と安全保障」ということなんですが、平和主義、大変奇妙な言葉ですよね。平和を望まない国あるいは人間はいないはずです。それじゃ、戦争主義というのはあるかと。そういう言葉はありません。ありませんけれども、現実に、先ほど申しましたように、アメリカは戦争国家になっています。ブッシュ大統領も言わば戦争を望む人間、そういう具合になっています。したがって、国家としての暴力、これは正しくテロです。イラク戦争、アフガニスタン戦争ともにテロです。テロに対してテロをもってする、これは絶対制圧できません。
 私が例えば先ほど申しましたように、アメリカの武力による考え方ですが、一九四六年から五十年後、九六年まで、アメリカが核、兵器のために使ったお金ですね、これをドル札で重ねますと、何と月まで行って地球近くまで戻ってくる、そういうような膨大な金額になります。
 したがって、武力に対し武力、目には目、歯には歯という形で制圧することは絶対できません。そういう武力が用いられないように、平和な方法で、いろんな形で、例えばイラク新法が問題になっていますけれども、イラクに対しては、例えばペシャワール会がパキスタンで展開しておりますような、ああいうような民衆の手での井戸掘り、医療、あるいは国境なき医師団、ああいうような平和な形で行われるべきだという具合に思います。
 例えば、カンボジアにしても、それからチモール、東チモールにしても自衛隊が行っていますけれども、土木工事は自衛隊でなければできない、そんなことないんです。国内に今不況でたくさん技術者がいます。そういう人たちを送って、現地で、現地の人たちの手をかりて、それで土木工事をやるがいい。そうしますと、地元に金も落ちる。そういうような平和な方法で暴力には対処すべきだろうという具合に思っております。
 以上です。


○公述人(加藤正之君) 暴力と一言で言っても、いろんなレベルで、家庭とか学校とか地域とかあるいは社会全体とかいろいろあると思いますけれども、私が最近一番関心があるのは、もう国家としての暴力といいますか、その最終的な究極的な形は戦争だと思います。その戦争がどうして起こるかということをいろいろ考えたりするんですけれども。
 ここで、私たちの生活というのは、生産と流通とそれから消費という流れの中で物を生産し、拡大して豊かな社会を作っていくという形を取っておりますけれども、戦争に使う武器というのは、生産のところでストップして、流通、消費のところは国民に全く返ってこない。それは考えてみれば当然でありますし、それは全部国が税金で買い上げて、戦争の武器、人を殺したり物を破壊したりする、そういうものに使われていく。
 それから、国家として、軍需産業といいますか、産業の民主化というか平和産業というか、そういうところに対して焦点を当てて考えていくということが私は余りにも少ないんではないか。もっともっとその点について国民とかあるいは国会においても議論してほしいなと絶えず思っています。
 作られた武器はどうしてもさばかなきゃいけない。そうしたら、必ず政治とその産業が結び付いていくんですね、政治と産業が。で、その使い先が必要になって政治が展開されていくという、そういう側面も私たちは歴史的に、現在もそのようなことを経験しておりますので、やっぱり産業、平和産業といいますか産業の民主化といいますか、まあ言葉はどうでもいいんですけれども、兵器がどんどんできていくということについてもう少し私たちは問題にしていくことが大事じゃないかと、最近特にそういうことを思っています。
 以上です。


○公述人(田中夢優美君) 暴力といいますけれども、国家が持つ武力というのは暴力ではないと思います。暴力というのは、一人の人が例えば勝手に、憎いからといって人を殺してしまったりするのは暴力になると思いますが、国対国、また国の安全を守るためにする武力行使というのは暴力とは違うと思います。
 あと、暴力が日本の社会では絶えないというのがありますけれども、学校の、青少年の犯罪とか、そういういじめとかいうのはよく今問題になって事件でよくありますけれども、これは、道徳の教育を小さいときからしっかりしておけば少なくなっていくと思います。日本では、私が小学校のときには、道徳の時間がありましたけれども、実際に道徳の授業はありませんでした。そういうところが欠けているから犯罪とかを平気でしてしまう人が増えてしまうんだと思います。
 以上です。


○公述人(畠山圭一君) 今、一般論として暴力ということが出ていますので、私も一般論として暴力ということについての考えを述べたいと思うんですが、もちろん、暴力というものは大変用いられるケースが増えている、これは大変ゆゆしいことでありますけれども、問題は、暴力を行使することが現実にこの地上からなくなるのだろうかということをまず一点我々は考えておかなきゃいけないだろうと思います。だからこそ暴力に対しては明確な罰というものがあるんだろうと思うんですね。
 ところが、果たして国内と国際社会においてこの罰というものをどのように考えていくかということの考え方が根本的に違うということを私たちはやはり理解しておく必要があるのではないかと思います。
 国内にあっては法というものがあります。そして、その法というものはいわゆる権威というものによってこれを執行する。時には力を行使して、言わば暴力をもって暴力を罰するということも行っているわけであります。そして、一つの暴力に対してこれを罪とし、あるいはこれを罰を加えるという形でできるのも、これまた国家があるからであります。
 私たちが裁判を受ける場合に、その裁判、人が人を裁くという行為を行っている、それが許されている理由は何か。それは、やはり国家という最大の権威たる権威があるからであると思うんですね。権威としての存在があるからでありまして、これは決して一人の個人が恨みを持って人に対して罰を与えているわけではないわけでありまして、これを作っているのは、正しく国家というものが存在し、それによって権威付けられた一つの統治の機構が存在するからだろうと私は思っています。
 しかしながら、国際社会ではどうか。国際社会においてそのような世界政府のような存在があるかといえば、これはないわけであります。そして、この世界政府といったものをまた各国がどのような形でこれを世界政府と認めるかということについては、恐らく当面、しばらくそのような権威ある存在は登場してこないであろうと思います。国連といえども単なる国際交渉の場であって、それを、国連もそれ以上の大変重要な役割は持っておりますけれども、決して万能ではない。世界に命ずるような、いわゆる武力あるいは力をもってその各国に制裁を加えるような力は国連も持っておりません。
 その中で、では国際秩序をどのように、その暴力というものをどのようにコントロールしていくかということを考えていくのが正しく安全保障でありまして、私ども国際政治学を専攻している研究者は日夜その問題に苦慮し、頭を悩まし、どのような国際秩序を構築していくことが必要なのか、そのための国家戦略、国際戦略とはどのようなものなのかというようなことを研究しておるわけでありまして、この点は、先生がおっしゃるように暴力に対する例は全く同感でありまして、私もそういう原点から発してこの国際政治を研究しておるものであります。

ご意見はこちらまで
(c)2002 Yamashita Eiichi Office All rights reserved.