165国会 教育基本法に関する特別委員会地方公聴会(神戸・徳島)2006年12月04日
■神戸地方公聴会
■徳島地方公聴会
(神戸地方公聴会)
○山下栄一君 今日は公述人の皆様、朝早くから大変ありがとうございます。貴重な御意見をお述べいただいたわけでございまして、少しでも、大事な法案審議でございますので、生かしていきたいと、このように思っております。
まず、森本、桂、太田、三公述人の方に、現場の視点から、国が支援するとしたらどういうことを今現場的には支援してもらいたいのかという観点で是非御要望をお聞きしたいというふうに思うわけでございます。
先ほど森本公述人から、子供の状況が大きく深刻に変わってきているという時代状況の認識を中途半端にした改革論議というのは、かえって現場を混乱させるよという意味のお話があったというふうに思います。
太田公述人からは、子供はそんなに変わっていないと思うというようなお話もございましたですけれども、学ぶ姿勢ができないままにサービスの主体としての要求がどんどん出てくるというふうなお話、森本公述人からもお話があったわけでございまして、非常に私は参考になったわけでございますけれども。
桂公述人も、もっと現場をサポートしてもらいたいと大震災の経験からおっしゃいました。
また、PTAの高校のお仕事、貢献されております太田公述人も、やはり保護者として、教育費支援を含めてもっとやっぱり国としてもやるべきことあるだろうということはおありかなと、こう思いましたもので、それぞれお三方から御要望ございましたらお聞きしたいというふうに思います。
○団長(北岡秀二君) 森本、桂、太田公述人、三人でよろしいんですね。
○山下栄一君 はい、そうです。
○団長(北岡秀二君) はい。じゃ、森本公述人。
○公述人(森本光展君) 私が現場で感じますことは、まず、子供が変わったということについてですけれども、ずっと高等学校におりますので、定点観察といいますか、二十数年同じ十五、六歳の子供を見続けてまいった中で感じていることであります。
簡単に言いますと、要するに手が掛かるようになったと。昔手が掛からなかったことが、四十人とか四十八人とか、私は四十八人学級で育った人間ですが、そういう集団で教育しても余り手が掛からない、高校ぐらいでありましたら教員は教科の指導をしていればいいというふうな状況がありました。
ところが、要するに、先ほど言いましたような状況の中で、子供たちが学びの主体から後退をしております。
サービス主体で様々なニーズが非常に多様化していると。その多様化したニーズにこたえるということと、学ぶ意欲が減退した子供たちに対応すると、これ両方とも、要するに、一口に言って手が掛かる。その手が掛かるためには、少人数教育をせざるを得ない。
それから、教員の方が、例えば四十人であっても、静かに子供たちをさせるためには一人の教壇の教員では足らないというわけで、その手が掛かる子供たちに対応するためにまず教員の人数が必要であると。これはもう私の学校で実際に、教室の中に入り込んで教科担当だけでは静かにならないところを静かにさせるとか、廊下に張り番をして静かにさせるとか、あるいは教育相談の担当の人間を増やすとか、様々なところに教員のニーズが増えております。それは従来であったら要らないようなことだったかもしれませんけれども、そういったニーズというのが増えている。
文化祭にしても、生徒たちは自分は積極的に何か作らないんだけれども楽しみにしたいという生徒が多くなってまいりました。そうすると、その運営主体は教員がやっておりますので、日ごろの授業の傍らそういう行事を運営をするというのは教員であると、楽しむのは生徒であるというふうな形で、圧倒的に人手不足であります。そういう意味でのまず教員の負担を減らすというのは、教員の人数が増えれば随分減ることではないかというふうに思います。
それと、ニーズが多様化するということは、多様なニーズにこたえたサービスが必要になってきますので、その多様な教科の展開をするためにも、やはり条件整備という意味でこれは予算措置が必要であろうと。多様な学校をつくっていくと生徒に対応できるんでしょうけれども、それもまた予算措置が伴うと。今の現場の教員が苦しんでいるのは、多様な教育をしていく、学校の特色づくりといいながら、金も人もよこさない、理念だけが多様化しているというような状況の中で苦しんでいるんではないかと思います。
以上です。
○公述人(桂正孝君) 森本さんが先ほどおっしゃられた高等学校の現状と私も一致を確認します。よく分かります。しかし、同時にまた、太田さんがおっしゃられたように、変わっていないよという子供もいます。つまり、子供が非常に多様になったということだと思います。
そして、私が一番問題にしているのは、なぜ社会的に自立化できないか、非常にモノトーンといいますか、それぞれ生活世界狭くなっています。いろんなものと、異質なものと出会うという機会が非常に少ないのです。ですから、トライやる・ウイークなどもそういうことを目指したわけです。いろんな出会いをつくろうと、いろんな関係をつくろう、そのことなしに一人の人間を一人前にできないということだと思います。
先ほど森本公述人がおっしゃいましたけれども、そういう条件整備ということがありますけれども、本当、手が掛かるんです。私は、中学校の荒れた子供たちの問題にいつも直面しておりまして、大人が壁にならないかぬわけです。受容せないかぬけれども、一方で許容できないこともあるんです。ここのさじ加減は物すごく、壁にならないかぬわけです。この壁になることが物すごいしんどいんです。そのことが先生方は本当にしんどいんだと思いますね、二十四時間になりますから。
ですから、そういう先生方の努力を支えていただくという意味で、今、森本委員がおっしゃったようなこの条件整備、残念ながら日本はOECDの中でも教育費の投資が非常に公的には低いですね、今のところ。学級の人数も韓国と同じように高いです。そういうことも含めて、もう一度再配置を考えていただきたいと思います。
○公述人(太田勝之君) 実際に学校におりまして思いますことは、本当に先生に掛かります負担、事務的な仕事とか大変そういうものが多いというふうに感じております。私もしょっちゅう呼ばれまして学校へ行きますけど、例えば、保健のことにつきましても、年間の計画等を立てまして、非常に細かくその運用といいますかそういうことが決められております。そういうことはすべてどなたがおやりになるかといいますと、全部現場の先生方であります。
それで、現状は、先ほどからおっしゃられますように、ちょっと強く出ますとやはり親の方から非常に反発が来るとか、そういうことがあるわけですけど、確かに、先ほど森本先生もおっしゃいましたように、PTA等に深くかかわっておればおる人間ほどそういうことはほとんどございません。余りそういうことにタッチしない情報量の少ない方ほど、やはり子供を守ろうとする意識からか、そういう極端なことに出る親御さんが多いように思います。
ですから、私も、先生方のやはりお手助けといいますか、先生方がもっとゆとりを持ってといいますか、気持ちにゆとりを持って子供たちを教育できるような環境ということが望ましいということは、親同士での話でもよく出ることでございます。
先生方は、やはり校長先生、教頭先生、もちろん同じ一つの学校の中でやっていただいているわけですけれども、やはり管理する側、管理される側という立場もございますし、やはり文科省並びに教育委員会等々からいろいろ御指示が出ますたびに現場の先生方がそれに大変時間を取られてやっておるという現状もあるというふうに見ております。その辺を、森本先生がおっしゃいましたその人員とか予算のことからも含めまして、何とか先生方が教育そのこと自体にもっと労力を割けるような状況をおつくりいただけたら有り難いというふうに思います。
○山下栄一君 土屋公述人にお聞きしたいと思います。
非常に重要な視点を御指摘いただいたように私は思っております。
それで、まず、基本的に現行の第十条にかかわる話ですけれども、教育の国民全体への直接責任、これは非常に大事な観点だというふうに思います。教育の民主化といいますか、ちょっと政治の民主化と教育の民主化というのは、現実を踏まえた政治に対して、将来を踏まえなきゃならない教育というのは、若干違う方法で表現、制度としてですね、表現できるということは、表現しなきゃならないという観点あるというふうに思うんです。
それで、ただ教育の国民への直接責任を制度化するという、これはちょっといろんな形で学校運営協議会とか試みはあるんですけれども、どんなふうにして制度化したらいいのかという、その何か御示唆とかございましたら是非お願いしたいところ、これが一点でございます。
時間の関係で、もう一点。これは、中央の教育行政の在り方でございます。
今、文部大臣、文科省、内閣の一員として文部大臣がかかわりながら教育行政が行われ、中央教育行政ですけれども、先ほど教育刷新委員会のお話ございました。あれは、内閣直属で昭和二十一、二年でしたですか、行われて、しばらくそういう体制がございました、今は大きく変わっているわけですけれども。この中央教育行政の在り方、不当な支配をさせない、政治的、官僚的支配、今の言葉のちょっと前の要綱の段階での表現でございますけれども、そういうことを克服するための中央教育行政の制度の在り方、これも何かございましたら、是非先生のお考えをお聞きしたいと、この二点でございます。
○公述人(土屋基規君) まず第一点ですが、教育は国民全体に対して直接責任を負って行われると。これは二つの側面がございます。
一つは、現代の学校は、私立であれ公立学校であれ公の性質を持つということが定められております。これを前提にして、教師は国民全体への奉仕者であるというふうに規定しておりますが、これは憲法十五条の公務員の全体の奉仕者性を超える性質を持っていると私は思っております。国民全体への直接責任性というのは、教師がすべての階層の子供とどうかかわるかという問題です。勉強ができる子もできない子も、腕力が強い子も弱い子も、いじめられる子もいじめられない子も、この子供たちに人間としての値打ちを彼らにちゃんと力を付けてもらうと、そういう点で差別なく、無差別平等に子供たちの成長を願う。ただし、それぞれの子供は個性がありますから、勉強ができる子も遅い子もいます。こういう子供たちに、すべての階層の子供に教師が無差別平等に誠心込めて働くということでございます。
もう一つは、父母とか住民が教育行政にどうかかわるかという側面がございます。この条項ができました後、この解説をした文部省の中の教育法令研究会が「教育基本法の解説」という本を書いておりますけれども、これは、直接的には父母や住民の教育行政に対する考え方の反映という仕組みを予定しておりました。つまり、法律は変わりましたけれども、教育委員を選ぶというのに住民が直接かかわるという仕組みが一九四八年から一九五六年のわずか八年間でありましたが、この間に三回だけ選挙がありましたけれども、こういうふうに直接教育委員会に父母や住民の意思を反映させるという仕組みを行ったことがありました。ただし、一九五六年以降は、御承知のように任命制になりましたので、教育委員の委員を選ぶのに対して住民が発言権を行使するということは制度的にできなくなりました。
もし、これを制度的にやるとすれば、今委員が御指摘になったような、あるいは民主党案の中にもありますように、学校の評議員制度とかあるいは理事会制度、こういうものを住民や父兄がPTA以外にも参加できるような仕組みをどれだけつくるか。ただし、民主党の案の中の理事会、法案というのは、諸外国の理事会とは権限が大分違います。諸外国の場合は、イギリスにせよアメリカにせよ、教育内容や教育課程とか財政とか教員の人事権まで持っている理事会なんですね。
すぐ日本がそれやるかどうかは分かりませんけれども、仕組みとしてはこのような教育行政に住民や父母が参加できるような仕組みをどうつくるかと。これは十三年間でございましたけれども、一九八一年から十三年間、東京中野区で教育委員の準公選という仕組みがあって、これは現在なくなっていますけれども、いろんな方法でその参加する仕組みというのはあると思います。もっと学校レベルでいえば、日常的に学校、何というんでしょうか、三者協議会とか、そういうようなものをつくってやっていくということもできると思います。
それから、時間がありませんからはしょって言いますけれども、中央教育行政の在り方ということでいえば、現代の行政は非常に複雑で高度でありますから、そういう点でいえば、中央教育審議会など審議会行政というのがございますね。文部科学省はその専門の方々がやっているとしても、そこにいろいろ知恵を付けてもらうような審議会行政というのがありますね。こういうところをかなり相当発揮していくということが私は基本的には大事だというふうに思います。
ただし、今回は、先ほど御指摘があったような教育刷新委員会というのは内閣全体にできた審議会でありまして、これが参考案作ったわけですね。戦後六十年たちますけれども、内閣全体に対して直接責任を負うような審議会ができたというのはわずか二回です。この教育刷新委員会は一九四七年八月から五二年六月まででありましたが、二回目はどこかと申しますと、あの中曽根内閣のときの臨時教育審議会でありました。それ以外は全部中央教育審議会のレベルでやっていました。
ですから、今回、もし教育基本法の問題を本格的にやるというなら、私は内閣全体の大重大問題だというなら、そのくらいのレベルの審議会で審議をして、もちろん政治家の方々が議論するのは構いませんよ、それは大いに構いませんけれども、そして案を出し、国民的なコンセンサスがいくような形になれば、多くの改正案についてのいろんな議論というのは深まっていくし、また同時に、教育の在り方ということについての非常に大きな議論の深まりが期待できるだろうと思います。
中央教育行政は文部科学省が中心なんですけれども、そこはやはり条件整備ということに徹する、あるいはサービス機関に徹するということがずっと中央教育行政の在り方で戦後改革されてまいりました。地方分権化の問題がこの二〇〇〇年代になって問題になりましたけれども、かなりの権限を移すように見えますけれども、やはりまだまだ中央のこの握って放さない部分、これが相当残っているというふうに思いますね。そういう点では、地方教育行政、そして学校へという形で幾つか権限を分散していくということ、そしてそこに住民や父母の参加ということができるような仕組み、これはいろんなレベルでできますので、そういう工夫があった方がいいんじゃないかというふうに考え方を持っておりますので、先ほど抽象的にああいうふうに申し上げました。
○山下栄一君 ありがとうございました。
(徳島地方公聴会)
○山下栄一君 今日は急な連絡で公述人として来ていただいているということをお聞きしておるわけでございますけど、そういう中にあって足を運んでいただきましての公述、心から感謝申し上げたいと思います。大変短い時間で申し訳ございませんけれども、簡潔に質問させていただきたいと思います。
戸塚公述人にちょっとお聞きしたいんですけれども、国際人権法の考え方を、これは昭和二十二年当時そういう環境ではなかったと、四八年から世界人権宣言ができた後、国際人権規約B規約、子どもの権利条約等制定されていったわけでございます。その考え方をできるだけ教育基本法の改正するんだったら反映させるという、そういう考え方は大変大事な観点だというふうに思っております。
また、こういう取組がまだまだ日本は弱いということも感じております。参議院の憲法調査会でも、私もメンバーでございましたので来ていただいたことを覚えておるわけでございます。確かにこういう取組を一貫して粘り強くやっておられる方がそんなにまだまだ多くないのではないのかなと。現場で様々な形で取り組んでいる方は増えてきておるわけでございますけれども。
そういう観点で、多文化共生の理念といいますか、子どもの権利条約二十九条一項、このお配りいただきました中にも、ちょっと全部は読みませんけれども、児童の父母、児童の文化的同一性、若干省きますけれども、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成することと、こういう考え方、非常に大事な観点だと思います。
今回の改正案の二条五項に、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛しと、他国を尊重しと、国際社会への寄与というふうなこと、若干不正確ですけれども、ございます。自らが育ってきた地域また国の文化伝統を学んでいくということ、これはもう戦後は非常に欠けていたということも、そういう考え方で私も同じ考え方でありますけれども、他国を尊重し、というのはそういうことの意味を込めて他の国の文化も学び、そして尊重するんだという、この子どもの権利条約二十九条一項の考え方をできるだけ反映させたいという思いからこういうことになっていったというふうに理解しておるわけでございます。
それについての表現ぶりについての御意見をちょうだしたいことと、まとめて戸塚公述人にお聞きしたいと思いますけれども、国際人権規約、A規約の十三条ですね、教育への権利ということがございます。ここにも書いてございますが、特に私はこの三項の「父母及び場合により法定保護者が、」と、途中省きますけれども、「児童のために選択する自由並びに自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を有することを尊重することを約束する。」と。宗教とか道徳に関する教育については、その父母また法定保護者が基本的には子供に自己の信念に従って後継者に、自らの後継者に教えていくんだということが基本だということを私はうたったのがこのA規約の十三条ではないかなというふうに理解しております。
それと、四項に学校設立の自由が書いてございます。これも、学校は公の性質を持つという考え方があるわけですけど、一方で、条約では個人が、個人が学校を設立する自由があるんだということを書いてございます。この考え方も、これから我が国の今後を考えていったときに、非常に大事な考え方ではないかなと思っております。
確かにこの辺は不十分というか、余り表現されておりません、改正案でも。そういうことを考えましたときに、私が申し上げました、今具体的な条文示させていただきましたけど、その辺についての戸塚公述人の御所見をお伺いしたいと思います。
○公述人(戸塚悦朗君) 山下先生、大変勉強家でいらっしゃいまして、憲法調査会のときにも詳しく質問をいただきまして、感謝しております。今回も大変重要な難しい問題を御指摘しておられますので簡単にはお答えができないわけでございますが、条文の一部だけを取り上げてそれを条文化しますととてもおかしなことになるわけでありまして、私のお願いは、このような子どもの権利条約あるいは社会権規約の条文をそのまま取り入れていただく、そっくりですね、それが重要ではないか、一部だけを切り抜かないということをお願いしたいと思います。
例えば、最初の居住国の伝統文化云々の問題がございますけれども、これは、居住国の子供に対し、つまり、例えば日本にいる日本の子供に対してだけではないんですね。日本には外国人が二百万人現在おります。その現在二百万人いる外国人のお子さんたちが学校に来た場合に、そのお子さんたちにも同じように教えるんですね。したがって、極端に言うと戦前のように日本のために死になさいということをその外国人の子供たちに教えることはできない。ただ、住んでいる今のこの土地に対する理解をしてもらいたいというわけですね。
そこで、それが日本なり国を愛する気持ちというふうになりますと、例えば朝鮮のお子さんたち、ブラジルのお子さんたちにも日本を愛しなさいということになるわけですね。逆に、外国のことが出てまいります。これは、日本の子供にも同じように外国を愛しなさいと。隣国である朝鮮もそうですし、アメリカもそうですし、これ両方とも自分の国を愛しなさいということを、自分というのはもうこれ世界、地球人全部が自分の郷土を同じように愛するということを教えることができるのかなと思うんですけれども、内心に立ち入れませんので、やはり日本の子供も外国人の子供も同じように教育しなきゃいけない、そこが極めて重要なことだと思いますので、一言申し上げておきたいと思います。
それから、親の教育権の問題がございました。
これは、おっしゃるとおり、国際人権法の分野では、ここに記載してあるとおり、親が権利を持っております。したがって、国家が決めていくわけではない、教育の中身を。あくまでも親が決めるわけです。体罰をするかしないかについても、親の考え次第で子供一人ずつについてやり方を変えなければいけないというヨーロッパ人権裁判所の判決がございます。そのように、国家からの、現在改正の論議がされているときに、どうも国家からの統制が強過ぎるという私は印象を持ったわけでありますが、権利という言葉がなくなっている、与党案では、というところに問題があるだろうと思うんです。子どもの権利、親の権利の方から物を考える必要がある、これは国際人権法の立場でございます。
それから、個人が学校を選択する権利、おっしゃるとおりでございます。ところが、日本では個人が学校を選択する権利が実はないんですね。例えば、日本人の子供が国際学校に行きたいという選択をする場合に、これは就学義務違反ということになります。一条校ではないからです。ブラジル学校に日本人の子供が行くということも許されていないんですね。実は学校の選択権は日本法上与えられていない。法が改正されても、そこは与えられていないわけですね。
ですから、外国人の方々も日本に居住する以上は、何人もですから、その方たちも学校設立の権利はある。したがって、その方々が設立した学校も、私立学校として日本の私立学校と同様に扱わなきゃいけない、そういう問題が含まれているわけですね。したがって、私は、大変いい御指摘を幾つかいただいたんですが、そういったところを個別に見ないで、全体として取り入れていただいて、今申し上げたような点も解消していただきたいというふうに思います。
ありがとうございました。
○山下栄一君 ありがとうございました。
富澤公述人にお聞きしたいと思います。
長年、福祉の現場、また今は研究者、高等教育の教官の立場でお仕事されておられることに敬意を表したいと思いますけれども、今、子供が取り巻く環境、特に学校教育におきましても、子供の生活そのものの、育ちの環境、育ちにくい環境が、それが家の中も地域もそうだと思います、それが学校現場に持ち込まれるということを考えましたときに、そこで勤務されている先生はそこに住んでおられるとは限りませんので、特に公立でもそうですけれども、教員の限界がある。そういう意味で、子供の生活をトータルに、よく連携を取りながら、よく分かった上で、その子供の生活指導、生徒指導に当たっていくということが非常に大事な今時代状況かなと思っております。
そういう意味で、特に地域資源、様々な地域資源のことをよく知っておられる、例えば社会福祉士、ソーシャルワーカーなどが学校とよく連携取ってつないでいくといいますか、そして様々な専門性をフルに生かしながら、情報交換しながら子供の成長に取り組んでいくという、そういうことが今非常に大事かなと思っておりまして、福祉に限りませんけれども、そういう例えば福祉と教育の連携、学校との連携、連携・協働ということを先ほどおっしゃられましたけれども、そういうことが非常に今求められているのではないかと。
そういう意味の公的支援も、人の配置も含めまして、大事かなと考えておりますが、今まで取り組んできてこられて、子供を取り巻く環境の中でこういう地域と学校との連携、そして福祉の専門家を活用する、学校現場に、というようなことについての先生の御所見をお伺いしたいと思います。
○公述人(富澤彰雄君) ありがとうございます。
私が最初のところで意見陳述いたしましたけれども、今の若者は、他人の痛みというんですか、そういうコミュニケーションというものが少な過ぎるように思います。そういった意味で、本大学もそうですけれども、私、今ソーシャルワーカーあるいは精神保健福祉士の国家試験の受験コースの方で今しておりますけれども、そういう学生さん、若者がそういう仕事に就きたい、よくよく考えて、あるいは相談に乗ると、自分も悩んでいる、それを何とか人の役に立ちたいと、そういう気持ちはすごく貴いんですけれども、じゃ、それを実行にとなると、コミュニケーションはなかなかそういう学生さんは取れない。やはりもっともっと対人関係というか、そういった場がボランティアの場であったりいろんな部活の場であったりということだと思いますので、そういったものを大学の中でももっともっと、ボランティアといってもなかなか乗ってきません、よほどのことない限り。有償ボランティアならということなんですけれども、まあそういうこともありかなと思っております。
そういった意味でもっともっと幅広く学生さん、若者が、メニューが一杯あって、その中で自分がこれだと言えるところに顔を出す、首出す、行ってみる、それでまた続けてみようかとか、そういうメニューをもっともっと増やさなければいけないんじゃないかなと思っておりますし、ネットワークの話がございましたけれども、もう事例を幾つも幾つも積み重ねて、それを発表する場みたいなものがあればいいなと思いますね。「小さな親切」運動の最優秀賞は徳島市内の小学校の子供が最優秀賞だということで、今日からホームページに出ているということで、まだ今日忙しくて見ていないんですけれども、そういったことももっともっと子供たちに広げて、ああそうなんだということで、そういう温かい輪というか優しいコミュニケーションというか、そういうものをもっともっと広がるような、もっと紹介するというんですか、そういうものをしなきゃいけないんじゃないかなと思っております。
以上です。
○山下栄一君 もう時間が来てしまったんですけど、白川公述人、また石躍公述人にちょっと学習指導要領、郷土教材のことなんかもお聞きしたかったんですけれども、時間が来てしまいまして申し訳ございません。
今日の様々な御意見を本当に教育を良くする方向で反映させるように、一生懸命取り組んでまいりたいと思っております。
以上でございます。済みません。