165国会 教育基本法に関する特別委員会会議録 2006年12月05日
○山下栄一君 今日、私は大きく二つのテーマで質問させていただきたいと思っております。
最初に、教育行政の在り方、二つ目は不登校の問題への対応、この大きく二点に分けて質問させていただきたいと思っております。
現行の第十条は、要旨ですけれども、教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対して責任を負って行わなきゃならないと、こういう趣旨のことを書いてございます。この不当な支配に服することなくというのは、中教審の答申でもこの文言は引き続き規定すべきだというふうに、三年前の中教審の最終答申でもされておったわけでございます。
そのことについてなんですけれども、教育というのは学校教育に限りませんし、この第十条も学校教育に限った規定ではないと。家庭で行われる教育、地域で行われる教育、企業において、企業はちょっと違うかも分からない、企業も含めてと思いますけど、学校、学校といっても幼稚園から大学までと、学校教育法の対象はそういうことだと思いますし、人を育てるということについての基本原則として、特に公権力との関係、教育行政の在り方、これが第十条の基本的な構えだというふうに思うわけです。
それで、まず、主に学校教育を想定しながら、特に私は小中学校ですね、義務教育ということを想定しながらこの第十条を考えてみたいと思うんですけれども、公立の学校でも、教育というのは児童生徒、教師、学校、教室だけじゃございませんけれども、そのやり取りの中で、授業もそうですし、人格的な触れ合いの中で人格そのものを鍛えていくと、これが教育の営みだというふうに思います。家、家庭でもそうだというふうに、両親と子供の関係、そういうことだというふうに思うわけですけれども。
基本的に、教育行政とのかかわりなんですけど、そういう人と人とのかかわりの中で人格を磨き、人を育てていくという、そういう営みは自主的に行わなきゃならないと、教育の自主性という言葉もよく国会答弁でも使われます。
教育の政治的中立という言葉も、例えば教育委員会なんかを説明するときによく使われるわけですけど、私はこの教育の自主性ということを基本に据えた教育行政ということの、私はこれは原点だと思うんですけど、そういうことを踏まえた教育行政であるべきだと、これは前に申し上げましたように、小中学校においても基本はそうだということでなけりゃならないと。
戦前は官僚主導で、教師じゃない人たちが仕切ってたと、中央集権で。そういうことだと思う。その大きな反省からこういう教育の自主性を大事にした、そういうやっぱり教育であるべきだということじゃなかったのかなというふうには思いましてね。
ところが、教育の自主性という言葉は法律で余り出てこないんですね、出てこないと。今回の改正案で比較的あちこちに出てきておりまして、それはまず家庭教育ですね。家庭教育は教育の自主性を尊重しつつと書いて、これは第十条でしたか、今度の改正案ですけれどもね。それから、大学ですね、まあ高等教育が中心だと思いますけれども、大学の方も、大学については自主性、自律性というのも出てきますけれども、第七条です。それは尊重されなきゃならないと、こう書いてございます。次、私立学校ですね、これは第八条。私立学校も、その自主性を尊重しつつと書いてあるわけです。家庭教育、大学、私立学校は書いてあるけれども、学校教育のところには書いていないと。いろいろ条文を考えまして、この教育の自主性ということを明記すべきだったのかなと、一般論としてですね、そういうようなことを無性に感じるんですけど。
今、文科省が教育行政を行うに当たって、この教育の自主性ということをどのような重みを持って御判断をされ、教育を執行されているかということを確認させていただきたいと思います。
○国務大臣(伊吹文明君) 教育の自主性というのはやはり当然、特に先生は義務教育について念頭に置いてということをおっしゃられたわけですが、教師と児童との間でやはり個性に応じて行われるという、この教育の本質的な教える者と教えを受ける者との間の関係を考えれば、教師にある程度の裁量の幅があるというのはこれは当然のことなんですね。だから、そういう意味では、教育の本質的な要請に照らして一定の範囲内で自主性というものは私は認められないといけないと思います。
先生が先ほどおっしゃった家庭教育とか大学とか、あるいは私立というところに自主性があるけれども、公教育というか、義務教育のところにそれは自主性という言葉が見当たらないのは、正にそれは当然のことなんですよ。
それはなぜかというと、義務教育というのは国、地方を通じて全額国民負担で行われているわけですね。そして、全国共通の規範意識とやはり学力を保障するために行われているわけですから、当然その自主性という言葉の意味合いは、どちらかというと、私立とか家庭教育とかあるいは大学教育に比べると法律的に制約されてくると。
ですから、今先生がおっしゃったことについての最高裁の例の旭川の五十一年のこの判決を読みますと、教師と子供の間の直接的な人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的な要請に照らし、教育の一定の範囲内において認められるものであると、こういうことを書いておって、不当な支配のところにも関係することであると思いますが、同時に、憲法に適合する有効な他の法律の命ずるところをそのまま執行する教育行政機関の行為がここに言う不当な支配とはなり得ないことは明らかであると述べて、ここで自主性を法律に基づいて行われる場合はという形で制限をやはりしているというのが最高裁の判例だと理解しております。
○山下栄一君 私の申し上げる方向性と大臣の方向性、ちょっと違う方向性から話になってしまったことをちょっと不幸なことだなと思っているんですけれども。
本来、教育というのは学校においてもやっぱり、教室で並んで行われる営みというのは、お互いに刺激し合いながら育てるということが基本でなかったら、法律に基づいて教育するというようなことじゃないと思うんですよ。この第十条の話、また改正案で第十六条なんですけれども、教育というのは自主性ということが基本でなくてはならないということを、文書で出てきませんけれどもね、それを踏まえた考え方で教育行政してもらわないと困るなということを感じるもので確認しようとしたんですけれども、ちょっと、何も一切規制するななんて何も言うてませんけれどもね。基本は、その最高裁もそうおっしゃっていると思いますけれども、教育の本質は、そういう人と人、教師と生徒、それが基本だということを明確におっしゃっているので、それを確認したかっただけなんですけれども、質問したいことが、ちょっと余りにも先へ先行し過ぎて、ちょっと展開として私の運びがうまくなかったなというふうには思っておりますけれども。
子供にとっての最大の教育環境は、親であり教師だと。子供にとっての最大の教育環境は、家庭教育であれば親であり、そして学校においては教師なんだということは構えておかないと、もういろんな教師いらっしゃいますが、そのことがやっぱり基本でなかったらならないと。このことはどうでしょうか。子供にとっての最大の教育環境は文部官僚でも文部大臣でもないと思うんですね。一人一人の子供にとっての、一人一人の子供ですよ、最大の教育環境はやはりそこに触れ合う、教育の専門家としての、学校においては教師であり、家の中においてはお父さん、お母さん、地域においてはおじさん、おばさんもあるかも分からない。そういうことが確認されておかないと、やっぱりここをちょっと大事にしたいなと思っているもので、子供にとっての最大の教育環境は両親であり、また教師なんだということについては大臣はどうお考えでしょう。
○国務大臣(伊吹文明君) その点については、私は何ら異議はございません。
しかし同時に、国民負担を使って義務教育を行っている限りは、良き教師であってもらわなければならない努力と、良き教育を施してもらわなければならない基準は、これはやはり法律において定めなければならないということでございますし、御家庭においても両親が最大の教師であり、その触れ合いによって子供が育っていくということも先生がおっしゃっているとおり、何ら私は異議はございません。
しかし、良き両親であるための教育は家庭教育、社会教育等で施さねばならないということでございます。
○山下栄一君 それで、この議論も何回もされましたけれども、今の日本の特に小中学校の教育については、特に公立ですけれども自治事務となっております。
私は、現在の学校教育というのは、いろんな意味で自治事務の部分が余り大きくないなということを感じるんですね。国の関与ということがやっぱり多いなということを感じております。一つは法令によるもの、学校教育法というものがあると、学校の教育は法律では学校教育法、言うてるわけですね。その下に学校教育施行規則というのがあると。見ると、非常に細かい規定になっていると。法律と省令ですね、法令に基づいて学校教育は、特に小中学校の話ですよ、私申し上げているのは、運営されていると。だけれども、じゃ現場の設置者の裁量権というのは、ないことはないと思うんですけれども、だけども、法令によって、法令による管理統制が非常に強くなってしまっているなと。そのことは省令に、施行規則に基づいて今度は告示がありまた通知まであると。これ、全部国の仕事で、そうなっているわけですね、一つは。
もう一つは、指導助言というやり方があると。これは別に指揮命令じゃないと。これは文科省設置法とか地教行法でそういう言葉は出てくると思う。どうも、戦後の教育は指揮監督によって学校教育しませんよと、戦前はそうであったと。戦後は指導助言というソフトなそういうふうなイメージで、特に国の関与は、義務教育への指導助言という形。ところが、指導助言の名の下に何となく拘束される部分が、現場の教育委員会も子供に向くよりも上の方を向いて仕事をされるような意識が強くて、これ地教行法に原因があるのかなとも思いますけれども。
そういうことで、指導助言ということなんだけれども、実質はやっぱり最終判断を文科省に仰ぎながらやっているみたいなことがあって、最終責任は市町村教育委員会なんだと、自治事務であるし。
そういうことをこの前、確認させていただきましたけれど、いじめの問題で。現場の学校の管理運営権は一体どこに最終責任あるんだと。
これは市町村教育委員だということをお聞きしたんですけれども、実質的には法令に基づく、指導助言に基づく、そして今度は補助金に基づいていろんな補助の執行に当たってのルールがあって、いろんな形で国の関与が、よく考えてみるとあるなと。現場の裁量権は非常に限定されてしまっていると。
そんなところにどうして創意工夫が出てくるかと、活力が出てくるかということも、一方では心配なことがたくさんあって、いろんな、文部大臣も直接乗り出されて出ないかぬ場面もあることは不幸なことなんですけど。やっぱり公立がどんどん何となく疲弊してきているのに、活力がなくなっていく原因が、こういう法令に基づくものとか、指導助言とか補助金とかによって現場が非常に窮屈になってしまっている。
最終管理運営責任は市町村の教育委員会のはずなのに、そういうふうなイメージ余りないようなことになってしまっているということを物すごく感じるんですね。
この辺がやっぱり、公立の再生を目指すためにもそういう現場の創意工夫、現場の先生方がやっぱりいろんな知恵出して考えるようなことになっていかないと、そういうことで教育の自主性ということを確認させていただいて、これは人を育てることについてはいろんなものが周りにあるとなかなかやりにくくなると。現場の創意工夫、活力を取り戻すには、やっぱり自治事務ということを基本に置いた教育行政というのを考えたときに、今の現行の教育行政の在り方は国の関与が実質的に多くなってしまっていると感想を持つんですけど、大臣はどうでしょうか。
○国務大臣(伊吹文明君) ある部分では先生の御意見に私は賛意を表しますが、ある部分では全く逆の印象を持っております。
やはり学校の当事者である校長にどこまで自主性を与えるかというのは、私は大きな課題だと思いますね。それからもう一つは、都道府県教育委員会と市町村教育委員会との関係をもう少しよくしなければならない。それから、国の関与が多過ぎるということがあるんならば関与は少なくても私はいいんじゃないかという印象を持っておりますが、特にいろいろなことを細かく言い過ぎる必要がないんじゃないかと思う部分もございます。しかし同時に、国が持っている最終的な責任は、それを担保する権限は国になければならない。これが今、残念ながらないということですよ。
じゃ、もし先生がおっしゃるとおりの現状であれば、国がお願いしている学習指導要領によって、なぜあれだけの未履修が出てくるんでしょうか。そして、それをとがめる、とがめるというか是正させる権限は国には残念ながら指導したりお願いをしたりすることしか現実には行われていないということを考えますと、私は先生のおっしゃる多くの部分に賛意を表します。しかし、残された国の部分については、それは国が責任を持って、その責任を果たせるような行政権限をやっぱり与えていただかないと困ると。
だから、特に義務教育に限定して言えば、これはやはり国民の税金を使っているんですから、全国一律の規範意識と教育は全国民に同じように与えられなければならないと、私は考えております。先生は違うお考えをどうもお持ちじゃないかという気がしますが、それはお互いに価値観の違いのことですから。
○山下栄一君 民主党案はそうなっているんですけどね、義務教育は最終的には国だと。私はちょっと違う考え方なのでこういうことを一生懸命言っているわけなんですけれども。
私は、最終責任取りようがないと私は思いますので、国はね。三万五千校の学校のことに、現場のことはほとんど分からぬわけですから、現場のことを分からずにこういう指導をすると、それは困ると。本当に活力が出てくるのかと。できるだけ現場が元気出てくるように創意工夫するように、そういうことでないと公立の蘇生はあり得ないと。いろいろ問題があるから更に国の権限を強くするんだというようなことでやると、戦前の国家主義的な教育、そこに大きな問題があったという、もちろん文部行政そのものも改革された部分もあるわけですけど、私は取りようがないと。大学なんかは、それはまあ国が比較的面倒見なあきませんけど、あちらの方が余計自治意識強いわけですからね。この辺は、ちょっと時間、今日ございませんので、余り詰めれません。
それで、お手元に、現行法第十条の変遷という、これは「資料教育基本法五十年史」という、これは力作の書物でございまして、そこのことを参照にしてまとめたものでございます。昭和二十二年三月三十一日法律できたときは、教育は不当な支配に服することなくと、この不当な支配という言葉の変遷を書いてあるわけですね。
最初は、主語は教育行政になっております。昭和二十一年、学問の自由と教育の自主性とを尊重しと。これが昭和二十二年一月十五日には、教育は不当な政治的又は官僚的支配に服することなくと、こう書いてございます。それが昭和二十二年一月三十日になってくると、教育は不当な支配に服することなくと、こうなっていって、枢密院議決で、教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対して責任を負うんだと、こういうふうに変わっていくわけですけど。
私は、この教育行政の在り方ということを、いろんな議論が昭和二十一年から二十二年にあったわけですけど、そういう一つのいろんな、もちろん文部省もGHQも、また教育刷新委員会もいろんな議論をしながらこういう最終版、不当な支配に服することなくとなっていったわけですけど、その過程の中で、学問の自由と教育の自主性を尊重し、また教育は不当な政治的又は官僚的支配に服することなくということがあって、そして不当な支配に服することなくというふうになっていったという、その背景についてはやはりきちっと留意しながらの教育行政ということが必要ではないかということを考えまして、先ほど、教育の自主性と出てきますので、冒頭に、最初の段階で。
今、学問の自由ということは憲法に入り、そしてそれがそのまま第二条、現行の第二条、そして新しい第二条でも、教育の目標の基本前提として、学問の自由を尊重しつつと、しつつのことでいろいろ議論ありましたけど、これはもう大前提なんだということを確認されております。ただ、教育の自主性の方が残ってないと、言葉は。今大臣おっしゃったように、大学とか家庭教育とか私学とかにはあるけれども。基本は教育の自主性ということを尊重する教育行政でなかったら、活力とか創意工夫はどうしても萎縮していくということを、繰り返しになって、もう繰り返しませんけど、そういうことではないのかなということでこの経緯の過程を、そして政治的、官僚的支配に服することなくと、これについては文部大臣は頭にくるぐらいかも分かりませんけれども、官僚的支配でやってきたと、戦前は。全部地方行政はもう中央集権で任命したわけですから。その方々が学校を運営していたわけやからね。学校現場知らない人が、官僚が学校現場を運営していたのは戦前だと。今は教育委員会の方でちょっと距離置いていますけれどもね。
というふうなことの反省からこういうことになっていったと。やはり教育の自主性とか学問の自由をど真ん中に置いた、そういう学校教育なり教育というのでないと人間というのは育たないのではないかという、私は今の公立の現状はそういうことを一生懸命訴えているのではないかと。それを反対に、もうちゃんとしてないから国がどんどん関与していくというようなことになっていくと、これ余計萎縮してしまって、もう学校の先生なんて本当にたたかれて、もう喜びは、子供の中から喜び出てくるわけですからね。親にも文句を言われながら、そして教育委員会も、それも、市も県の教育委員会は当然、まして国からもいろんなことを今やられたら、もう現場は萎縮してしまって、もう給料少々もらっても、学校の先生になろうかなという人は減ってくるんやないかなと、特に公立はですよ。ということを大変危惧しますので、こういうことを申し上げました。
私は、文部行政というのも反省せないかぬと思うんです。
今回の未履修もそうですし。未履修においても、分かっていたのに手を打たなかったということがあったわけですから。それはこの委員会でもありました。それはだけど、騒いだら今度は一生懸命調査して修習するのかと。そんな思い付きで恣意的にやるのかと、調査はと。そんな現場のこと分からへんのに、それは書類だけでチェックするしかしゃあないんですよ、それは。その報告が本当に正しいのかどうかなんて疑問持ち始めたら徹底的にやらにゃいかぬわけでね、そんなことやったってしようがないんですよ、三万五千校もどうしてやるんですかということを言いたいと思いますし。
このいじめの問題も調査はやっぱりちゃんと、だけど、官僚の世界で調査なんて、自分に責任があるなと思ったら隠ぺいしたくなってしまいますよ、そんなの。追及されるわけやから、そんなんで。何でうちの子供死んだんですかって言われたら、それはやっぱり隠ぺいしてしまいますよ、それは。いかぬけど、それはね。だから、第三者機関必要ではないですかいうことを今日、今官房長はいらっしゃいませんけど、そういう話をさしていただいたわけで、そういうこと。
タウンミーティングも私はそうやと思うんです。不当な支配とまで言いませんけど、それは適正、この改正案に書いてある、教育行政は公正かつ適正でなけりゃならないと書いてある。タウンミーティングの実態は、教育行政ですからね、それにかかわってタウンミーティングを何とかしよう思ってやらはったんでしょうけど、あんなの公正かつ適正なんてとても言えないような実態になっているわけですからね、誤りもあるわけですよ。
それで、ちょっと済みません、第十六条の、改正案の確認だけするのを忘れていましたんで、この法律及び他の法律の定めるところによりという、これはちょっと、これは局長になると思いますけどね、この法律及び他の法律、他の法令と書かなかったと、他の法律というふうに書いたということに私意義を認めているわけですけど、このことについての文科省のお考えをお聞きしたいと思います。
○政府参考人(田中壮一郎君) お答えを申し上げます。
改正案第十六条第一項におきましては、国民全体の意思を代表する国会において制定された法律の定めるところにより行われるべき旨を規定しておるところでございます。したがいまして、これらの政省令の制定に当たりましては、教育基本法やそれぞれの法律の趣旨にのっとりまして、国会等における議論も踏まえて、適正かつ公正に行うことが必要だと考えておるところでございます。
○山下栄一君 法律は国民の意思を代表する国会で定めるものだと。しかし、この政省令とかですね、それは直接我々タッチしませんし、国会は。もちろんそれは基本的に法律に基づいてされるんでしょうけど、だけどそれは不当な支配の対象になり得るんだということを学テ判決も言っているわけで、このことは、先ほどもおっしゃったものをもう一遍確認します。それでよろしいですか。
○政府参考人(田中壮一郎君) お答えを申し上げます。
先生御指摘いただいておりますように、最高裁の判決で、法律を運用するに当たっては不当な支配とならないように配慮しなければならないものとされておるところでございまして、これを踏まえて国としても対応していく必要があると考えております。
○山下栄一君 ちょっと不十分やけど。
だから、法令と書かなかった。それは不当な支配の、この令、令のところは、これは行政がやるわけですから、不当な支配になる可能性があるということで法律にとどめたと。もう一遍確認、それでよろしいですか。
○政府参考人(田中壮一郎君) 御指摘のとおりでございまして、国民全体の意思を代表する国会において制定された法律の定めるところによりと規定したところでございます。
○山下栄一君 ちょっとこれ大事なとこなんで、今確認させていただきました。
それで、ちょっともう残りの時間なくなってきましたんで、不登校の話をしたいと思います。
不登校の子供がいろんな国、地方、それぞれの御努力によって増えない状況にはなってきたけれども十三万人いらっしゃると、小中高ですけどね。これは深刻な課題。学校に行きたいと思っていると、行きたいと思っているけれども、様々な心、内面の事情によって、学校へ行こうと思うと体が硬直して行けなくなってしまうと。これはサボっているのではないということを私も現場で経験さしていただいて、スクールカウンセラー提案さしていただきました。これ平成五年のことでございます。そして今、実験的、モデル的な取組から始まって、今はすべての小中学校で教育カウンセラー配置されるようになって、これも一定の効果を上げていると思うんですけど。行きたくても行けないということは深刻な課題だと思いますし、このことで、またそういう状況はどんな子供にも起こり得るんだということを、これはもう文部科学省が確認されております。
そうすると、私は、この就学義務規定なんですけど、これ学校教育法、現行ですよ、現行の学校教育法で就学義務を課しております。教育基本法では課しておりません。学校教育法で初めて就学義務というのが出てくると。学校に行かないかぬと、親は行かさないかぬ、行かさなかったら罰金を取ると、こういう体系になっているわけであります。それは、昭和二十二年当時はそうだったかも分からぬと、それは家事お手伝いとか労働とかで。ところが、もう六十年もたって不登校がこれだけたくさん出てきて、この数は尋常じゃない数やというふうに思います。
そうしたら、この就学義務があるんだという考え方は、それはもう教育基本法改正と同じように学校教育法も、同じ年月日の昭和二十二年三月三十一日に同時にできた法律なわけですから、これはやっぱり見直す時期に来ていると。まあ中教審でも議論あるようですけど、そういうことを念頭に置いた検討、これは私はやるべきではないかと、こういうふうに思うんですけど、いかがでしょう。
○国務大臣(伊吹文明君) 憲法二十六条がございますから、国民の権利として、すべからく保護者は小中学校に就学させる義務が学校教育法において課されていることは先生御指摘のとおりでございます。
しかし同時に、かなり社会状況も変わってまいりまして、今おっしゃったような不登校、自分の気持ちではどうしようもないと、どうしても学校へ行けないという子供がいることも事実です。ですから、こういう子供には、学校外の施設で指導を受けるとか、あるいは自宅においてIT等を利用しての学習を受ける場合は例外的に出席とみなすということがあるのはもう教育現場におられたから御承知のとおりです。
〔委員長退席、理事保坂三蔵君着席〕
ただ、一般論として、不登校ではないけれども、学校への登校義務を外して今のような教育を受けさせるということを一般化するということについては、これはやっぱり教育の在り方、特に子供は大勢の子供と一緒にいることによって自己成長いたしますから、これはなかなか私は難しい課題だと思っております。
○山下栄一君 私は、憲法二十六条の教育を受ける権利、そして改正案の第五条の三項の「国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため」にと、こう書いてございます。国と地方、協力してよと。これも、私、入っていると思うんでありますけれども、教育の機会をちゃんと保障していくという、教育を受ける権利があって、こういう義務教育の規定になっていると思うんですね。
だから、行きたくても行けないという、そういう子供がいらっしゃると。本来の学校ですよ、公立の学校ね、ここに行きなさいと言われた学校。そこには、大臣もおっしゃったように様々な取組はされているんですけれども、僕は腰引けてやっていると思います、私はね。NPOとかフリースクールとかいろんな、もうそういう面倒を見る方々、細々した財政基盤で一生懸命子供にかかわっていることがあるわけです。
したがって、私はやっていないと言いませんよ。やってないとは言わぬけれども、腰引けてやっていると。教育を受ける権利を保障するんだったら、そういう行きたくても行けない子供を何とかして教育を受ける保障をするための仕組みと制度を予算を掛けて、人も手配して、学校じゃないところでですよ、適応指導教室もやっています。やっているけれども細々と、民間の方が熱意込めてやっているというふうに私は思います、NPOの方が。
だから、実際、その適応指導教室等でやっている、どれぐらいの数やっていて、どれぐらいの生徒がお世話になっているのかということをちょっと教えてください。
○政府参考人(銭谷眞美君) いわゆる不登校の子供で適応指導教室で学んでいる子供の数でございますけれども、平成十七年度で一万五千七百九十九人でございます。それから、いわゆる民間の団体あるいは民間の施設等でいろいろ学んでいる子供は二千四百九十五人でございます。それで、適応指導教室で学んでいる子供の約四分の三の子供は、先ほど大臣からお話がございましたように、指導要録上出席扱いをしている人数になってございます。民間の施設の場合は約三割の子供が指導要録上出席扱いになっていると。
各教育委員会では、学校復帰に向けまして、こういう不登校の子供たちに対しましていろいろな指導を今行っているという状況でございます。
○山下栄一君 この取組もまず民間から始まって、それで今適応指導教室ということを、学校現場ではない、ちょっと離れたようなところで面倒を見る体制をつくっておるんですけどね。
私は、先ほど申し上げましたように、まだまだ腰の引けたような状況になっていると。学校に行きたくても行けない子供はもっともっと大事にせないかぬと。それをちゃんと保障するのが二十六条の憲法の精神ではないかと。民間がもうボランティアで一生懸命やることに任せていたい、任せているわけやないけれども、その辺の取組がやっぱりちょっと、憲法の精神を受けたようなその取組をやっているかというと、私はそこまで行っていないということを感じまして申し上げました。
それから、就学義務免除と猶予の制度があるんですけど、これは法律上認められておりますけど、免除とか猶予というような子供は病弱とかであり得るんでしょうが、たとえそういう子供であってもいかにして教育を受ける権利を保障するかというための応援、条件整備、財政支援、これはもう一生懸命やらにゃいかぬと。
猶予とか免除の生徒ってどのぐらいいらっしゃるんですかね、児童生徒。
○政府参考人(銭谷眞美君) 病弱あるいは発育不完全その他やむを得ない事由のために義務教育諸学校に就学困難と認められ、就学義務の猶予又は免除を受けた者でございますけれども、平成十八年、今年の五月一日現在で就学猶予・免除合わせまして二千六百六十五人でございます。
ただ、この内訳を申し上げますと、いわゆる本当に肢体不自由あるいは病弱、虚弱の方もおりますけれども、数として私ども多いと思っておりますのは、いわゆる二重国籍のお子さんの場合でございまして、家庭の事情等から客観的に将来外国の国籍を選択する可能性が強いと認められ、かつ他に教育を受ける機会が確保されていると認められる事由がある場合には、この二重国籍のお子さんについては就学猶予・免除を行うことができるということになっておりますので、そのお子さんが多いというふうに思っております。
○山下栄一君 だから、すべての国民が義務教育を受けろと。就学免除ということは、もう無期限に学校に来なくてよろしいというようなことを認めていることになっているわけですからね。そういうところにも光を当てて、そして教育を受ける権利をいかに保障するかと、それが憲法の精神やと思うんですね。そこまでのきめ細かい気配りを、これが国がやるんだったら私は国の関与はいいと思うぐらいでございまして、自治体がやれへんのやったらね、ということだと思うんです。だから、こういうところにも光を当てたやっぱり教育行政を期待したいと思います。
先ほどフリースクールの話も、あれ局長ね、公的には一万五千人で民間は二千何人とおっしゃったけど、それは本当にその二千六百人かと。それはたまたま出席日数でカウントされる民間の話でしょう、それ。違いますか。思うことありましたら。
○政府参考人(銭谷眞美君) 先ほど私が申し上げましたいわゆるNPOフリースクール等、民間団体、民間施設で学んでいる子供の数、この二千四百九十五人というのは、全員が指導要録上出席扱いをしているわけではございません。指導要録上出席扱いをされている子供はこのうち七百五十七人でございます。
○山下栄一君 それはそうなんや。だけどな、それは、その施設で、出席日数カウントできるような子供もおればできない子供もおるわけで、それは基本的に報告するようなフリースクールなわけで、報告しないフリースクールも、自主的にボランティアでやっているところもたくさんあるわけですから、私は、不登校の子供たちで学校に行けない子供に差し伸べる仕組みや形というものはできているんですけれども、それはだけど、スタートも民間から始まったことですし、二十六条の精神を受けたそういう取組をしっかりとして、そして、そういう取組をやっているNPOについては、私学助成なんかないわけですからね、財政支援をする仕組みもしっかり考えて、我が党もそれを推進したいと思っていますけれども、そういうことをすることがこの憲法二十六条の精神ではないかと、このようにお訴えして、時間が参りましたので、質問を終わりたいと思います。
済みません。ありがとうございました。