134国会 宗教法人等に関す特別委員会公聴会会議録 1995年12月06日
○山下栄一君 本日は、百地先生、小林先生、大変御多忙のところを朝早くから御準備いただきまして、本当にありがとうございます。
百地先生は電車がおくれて、必死になって一生懸命汗をかきながら来ていただいたわけでございますけれども、本当にありがとうございます。
委員長から御指名ございましたように、平成会の山下と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。
先ほどそれぞれの先生から意見陳述をいただいたわけでございますけれども、私の方からもそれにかかわる御質問を何点かさせていただきたい、このように思うわけでございます。
まず、宗教法人法改正の前段階の信教の自由、また政教分離、それぞれの公述人から御説明があったわけでございますけれども、まず憲法的な観点から質問させていただきたい、このように思います。と申しますのも、今回の宗教法人法の改正は、改正そのものが信教の自由、また政教分離の原則を侵害するものではないかという、そういう強い私は心配がございます。
まず最初に、信教の自由でございますけれども、このことにつきましては小林先生の方から先ほど若干の御説明があったわけでございますけれども、百地先生の方に幾つかお聞きしたいと思うんです。基本的人権の体系の中において信教の自由の占める位置ですが、私は、やはりこの信教の自由というのはほかの身体、物的な自由と違った別の大事な観点があるのではないかこのように思いますもので、基本的人権体系の中における信教の自由の位置づけにつきまして百地先生の御意見をお伺いしたい、このように思います。
○公述人(百地章君) 私も、信教の自由を守る、大切にしたいという気持ちにおきましては人後に落ちないつもりでございます。
それから、人権の体系の中における信教の自由の占める位置という問題でございますが、これは歴史的に考えましても、これも教科書に出てくるとおりでございますが、例えばアメリカでも基本的人権を確立する際にその中核となったのは信教の自由であった、また、アメリカ大陸に渡った人たちが大陸に渡ったのも信教の自由を求めてであったというのが定説になっております。
実際はそこには若干神話化されたところがありまして、実際アメリカに渡った人々、百数十名の人たちがメーフラワー号に乗って行っているわけですが、しかしそのうちの六十何名は国教徒でありまして、実は新大陸で一旗上げようと考えていたんだと。そしてまた、バージニア州はたしか国教会が国教となっておりますから、本当に宗教的に迫害された人たちだけがメーフラワー号に乗って大陸に渡ったというのは、後に二百年たってでしたかウェブスターという人がつくり上げた神話であるというような説もありまして、まあいろいろ興味深いことがあります。
また、イギリスで信仰を迫害された人たちが大陸に渡ったんだ、そして信教の自由を確立したんだというふうに言われますが、しかしこれも歴史的に見ますと必ずしもそうじゃない。実は独立当時十三州ありましたが、そのうちの十二州におきましては、あの当時、国教制か公認教会制をとっていたわけですね。したがって、信教の自由を求めて大陸に渡った人たちが、実は一たび自分たちが植民地をつくりますと、自分たちの宗教を国教としたりあるいは公認教とする、そして少数者を迫害してしまったというのがアメリカの歴史であります。したがいまして、いわゆる神話化されたとおりではないと思っております。
また、バージニア州でも信教の自由というものが中核となってあのバージニアの権利宣言ができたと言われますが、これも実はいろいろ説がありまして、当初その素案には信教の自由というのはうたわれていなかったということも言われておりまして、いろいろと神話化されたことはあります。
しかし、長い歴史の上から見ますと、確かに信教の自由を求めて大陸に渡った人たちがたくさんおりますし、またアメリカにおいて人権というものを確立する上で信教の自由が非常に重要な位置を占めた、これは私は流れとしては間違いないと思っております。そしてまた、そういう歴史とは別に、現実のこの私どもが住んでいる世界を考えましても、私たちが生きていく上で一番大事なのはやはり心の問題だと思うんですね。もちろん肉体的な問題もありますけれども、心の問題が大事ですから、したがって思想の自由あるいは信教の自由、これはもう絶対奪われてはならない大切な権利であるというふうに私はもちろん考えております。
○山下栄一君 今も最後の方で私の質問に少し触れていただいたわけでございますけれども、内心の自由、思想・良心の自由、それは日本の憲法の十九条ですね。そして二十条に信教の自由があるわけでございますけれども、心の中の問題といいますか、それぞれ一人一人の人間の生き方、どう生きていくかという信念にかかわってくる問題だと思うんですけれども、それは人それぞれが独自の生き方を持って生きるべきであると思うわけでございまして、だれからもこれは強制されてはならないというふうに思うわけでございます。また、そこに人間の尊厳の根拠といいますかがあるのではないかと、このように思うわけでございます。だれ人たりとも精神の中身の問題についてはだれからも支配され強制され屈服すべきではない、そこに思想・良心の自由、信教の自由の重みがあるのではないかこういうように私は思うわけでございます。
先ほど小林先生は、この信教の自由というのは優先的人権である、ただ、外にあらわれた物的・身体的自由と比べると非常に壊れやすいという、こういうお話をされたわけでございますけれども、この辺のところをもう少し解説願いたいと思います。
○公述人(小林節君) 簡単なことでございますが、例えば物が奪われれば、これはすぐ目に見えます。それから肉体の自由は、傷つけられれば痛いし血が出ます。ところが心の自由というのは、まさに洗脳がそうでございますが、じわじわと気づかずに管理されていって、気づいてみたら気づく自分が気づかなくなってしまうわけですね。そういう意味で心の自由は弱い、脆弱だと言われて、だからとりわけ公権力は過剰な規制をしないようにという憲法上のルールが確立されている。
それからもう一つは、先ほど百地先生も触れられた点なんですが、歴史的な事実はいろいろ原則も例外もございますが、要するに、信教の自由というのは他の自由と違いまして客観的証明の不能な世界で、私は信ずる、そしてそれがその人の根本的な幸福、不幸に直結する部分でございますから、たまたま国家、公権力の宗教的立場と自分の宗教的立場が違っても、ほかのことだったら遠慮するんですが、ここは遠慮しないでぶつかって、すぐ迫害に遭ってしまうという歴史があったわけであります。そしてまた、それは迫害された場合、一番痛いんですね、心ですから。
そういう意味で、そういうことも、さっきの見えにくいという点を含めて、つい抵抗に走ってしまう領域で、かつ否定されたら一番人格的被害が大きいから大事に扱おう、それは何か正当な目的で規制をかけることがあっても、法としてはできるだけ必要最小限の規制でなければならない。つまり、大きく網をかけるような規制をしてはいかぬという憲法原則になっているわけでございます。
以上でございます。
○山下栄一君 信教の自由と政教分離の関係でございますけれども、この信教の自由というのは基本的人権の根幹を占めるものである。これは、その時代時代の政府とかまた国家とか、そういうものを超越した人間の根源的な権利が信教の自由である。その基本的人権の根幹である信教の自由を補強し強化するために政教分離という原則、憲法原則があるんだと、こういう私は理解をしておるわけでございますけれども、この信教の自由と政教分離の原則との関係につきまして、それぞれの公述人から御意見をお願いしたいと思います。
○公述人(百地章君) 政教分離と信教の自由の保障の関係でございますが、私は、端的に信教の自由を保障することが目的であり、そのための手段が政教分離であると考えております。
つまり、信教の自由は人権であります。他方、政教分離というのはいわゆる制度的保障というふうに言われております。制度的保障というのは、基本的人権とは違って、後国家的な、国家によってつくられた制度でございます、歴史的に。例えてみますと、ちょうど学問の自由と大学の自治の関係に当たると思います。学問の自由というのは個々の学者あるいはすべての国民に与えられている。しかし、歴史的に学問活動の中心になったのが大学であったということから、大学に対しては国が介入したり干渉したりしないという形で、大学における学問の自由をより確保するために大学の自治というのはつくられた、制度的につくられてきた、このような関係にあると思います。
したがいまして、信教の自由を保障するための手段が政教分離でありますから、政教分離そのものをあたかも目的とするような考え方は、私はこれは本末転倒であるというのが第一であります。学説の中には確かに政教分離というのは人権であるという説もありますが、これは少数説でありまして、私はとりません。あくまでも手段と目的の関係にある。
そうしますと、例えば信教の自由を保障するためには、場合によっては国が宗教的なサービスをしなきゃいけない場合もあり得るんじゃないか。一つの例が刑務所ですね。刑務所には受刑者のためにいろんな仏壇とかキリスト教の神殿とかあるいは神道の祭殿がありますが、これは明らかに国が宗教施設を国の施設の中に設けているわけですが、受刑者のための信仰の問題を配慮してそういうことを行っているわけであります。
あるいは教誨師を呼ぶのもそうであります。つまり、受刑者というのは身体の自由は拘束されておりますが、精神的自由まで奪ってはいけない、つまり心の自由まで奪ってはいけない。そうすると、そのような場合に、受刑者が例えば回心してあるいは改心して、そして何か信仰によって導かれたいというふうなことになった場合に、自由に行動できません、外出できません。そこで、例えばキリスト教の話を聞きたいということになればキリスト教の教誨師を呼ぶというような形になりまして、信教の自由を保障するためには政教分離も緩和されざるを得ない場合もあるというのが私の説であります。
ただ、学説の中には、その辺を余り議論しておりませんで、あたかも政教分離そのものが目的であるというような議論がありますが、私はそれをとりません。
○公述人(小林節君) 御高説の後に繰り返しになりますが、信教の自由の保障が目的で、政教分離の原則がいわば手段の関係にあると考えます。要するに、信教の自由というのは、それぞれの宗教上の主義、信条の違いが不法行為や違法行為にならない限りほうっておいてもらえる、そういう環境を維持するために国家権力は介入しないというのが政教分離でございますが、介入しないといってももちろん違法、不法は許す必要はないわけであります。要するにポイントは、宗派というのは意見の違い、すなわち価値観の違いでありますから、その価値観に変な序列をつけない、つまり、国教の禁止であれ特定宗教弾圧であれ、宗教界の自由競争に変に手を突っ込まないという原理であります。
その点でいきますと、気になっていたんですが、今回の改正案で法の適用について規模で宗教の扱いを変えるというんですけれども、宗教というのは本来的に規模で判断できる話題ではないはずなんですね。価値の問題ですから、価値の問題は大きさの問題でははかれないはずで、それを大きさで仕分けするというのも、これはある意味では差別の構造で、政教分離の問題になるんではないかという注意を申し上げております。
○山下栄一君 先ほど百地先生は、宗教団体の政治活動、これは限度があるんだという中で、政治参加はいいけれども政治支配はだめだという、そういう基準を設けられたわけですけれども、もう一歩何か不明確であるなというふうに感じるわけでございますけれども、政治支配はだめだという意味ですね、それを少しお願いしたいと思います。
○公述人(百地章君) 実は、その辺の研究は我が国でもほとんどされておりません。私も、広義の政教分離それから狭義の政教分離という考え方は平成三年に出しました著書の中で既に言っておりまして、そういうことは前から言ってきておったんですが、具体的な条文の解釈として二十条をどう解釈するか、つまり政治上の権力の行使の禁止をどう解釈するかということについては、実は私もそれほど突っ込んで考えたことがありませんでした。
しかし、改めて政治と宗教ということが問われている中で私なりに考えてみたわけでございます。したがって、まだ熟したものではありません。しかし、私の広義の政教分離と狭義の政教分離というその概念を用いますと、当然憲法二十条も八十九条もその前提には広義の政教分離があると考えられる。これは近代国家の大原則でありまして、例えば書いていなくてもそういうことは近代国家あるいは憲法の大原則だという例は、例えば個人の尊厳というような場合がそれですね。基本的人権の前提として個人の尊厳というのがあるんだと。これを出発点として人権というものを考えていきますが、憲法には個人の尊重はありますけれども、個人の尊厳という言葉はありません。しかし、憲法の基本原則として個人の尊厳ということを考え、そこからスタートしているのが基本的人権に対する理論です。
したがいまして、政教分離の問題も、従来の議論というのは私に言わせますとどうもあいまいなところで終わっている、何というか突き詰めた議論はしていなかったんじゃないかと思います。そこで、私なりの概念を用いまして、そして分析しているわけでございます。
○山下栄一君 宗教団体が支持する政党が議会で多数を占めた、それはよくないんだと、こういうお考えでしょうか。
○公述人(百地章君) 今お答えするのをうっかりしてしまいまして、忘れてしまいました。私自身も、参加はいいけれども支配はいけない、あるいは政党の支持はいいけれども政党を支配するのはいけない、一つのメルクマールとしてこのあたりをヒントに考えたらどうかなと思っているものでございますので、もちろんその言葉自体いろいろと厳密にさらに検討しなきゃいけないと思いますが、とりあえずそう考えているということです。
宗教団体が支持する政党が議会で多数派を占めたりしたらいけないかというのは、済みません、ちょっと上がってしまいまして、そういう趣旨でございましたでしょうか。どういうことでございましたか、ちょっと上がってしまいまして。
○山下栄一君 議会で多数派を占める。
○公述人(百地章君) 議会で多数派を占めるということは許されないかという、そういう御質問ですね。
そこで、微妙なところなんですが、宗教団体が支持するということですが、先ほど申し上げましたように、いろんな宗教団体が個々の政治家を支援したりして、そして利益代表で送っている、この分には当然問題ないと思います。しかし、その宗教団体が支持するその支持の内容が実は問題になってくると思うんですが、もしそこに宗教団体の意向を無視しては動けないような、そういう関係があって、そしてそのような政党が議会で多数派を占めるということになりますと、これはその宗教団体の意向を抜きに議会としての正当な意思も表明できないことになりますから、したがってそれは問題ではないか。つまり、その支持とその辺の関係がちょっと微妙でございまして、どういうことを具体的に考えていらっしゃるのかよくわからないものですから。
以上です。
○山下栄一君 済みません、時間がたってしまいました。
宗教法人法の問題につきまして御質問したいと思うわけでございます。
オウムとの関係、オウム事件を契機にしてこの宗教法人法の改正というのに取り組まれたと、そういうふうに政府はおっしゃるわけでございますけれども、この法改正の目的がもう一歩明確になっていない、このように思うわけでございます。
先ほども百地公述人の方からは、今回の改正によって宗教法人の実態把握が非常に進むことになるというお話があったわけでございますけれども、今回の改正がオウムの再発防止につながるのかという、このことにつきましてそれぞれの公述人からお伺いしたいと思います。
○公述人(百地章君) その点でございますが、これによってオウム事件のような、あのような忌まわしい事件が再発することを防ぐことができるかといったら、これは甚だ心もとないところでございまして、どこまで回避できるかはこれは疑問でございます。しかし、少なくとも今回のようなことはなかったであろうと。つまり、例えば異臭騒ぎがあったりしていても行政はなかなか介入できない。解散命令とかそういう命令、実体規定はありますけれども手続規定がありませんから、したがって実態を把握することができない。法的な不備。
それからもう一つは、戦後の風潮としまして、戦前、いろいろ宗教に対する国家からの迫害があったということで、いわばその反動として、要するに宗教というものには国は一切介入しちゃいけないかのような、そういう聖域化するような社会風潮といいますか国民的な風潮があります。そういう中で、従来も何かしようとするとマスコミも非常にこれを批判する。そういう風潮の中で行政が怠慢であったということもありますが、法的にやはり不備があったことは間違いない。そのために少なくとも、事件が起きて、そして犯罪が発生するまで動けなかったというのは間違いないと思います。
したがいまして、そういうことが少しでもないように、例えば信者がその教団の意向、教団のやっていること、例えばお金の動きとかそういったことをチェックする。そうすれば、いろんな化学薬品を購入しているとかそういうことが少しでもわかれば、これは教団のやり方に対していろいろと疑問を持つ、そういう信徒も出てきたでありましょう。したがって、未然に回避するための一助とはなり得るであろうというふうに思います。
○公述人(小林節君) 結論からいいますと、改正は効果なしと考えます。
まず、異臭騒ぎのときもそうですが、それから松本のサリン事件のときもそうですが、まことに繰り言でございますが、警察とか、それから現に後ではたばた地方自治体が建築基準法違反だとか児童福祉法違反だとか、それからお金の問題は税務署がいるわけですから、それぞれの役所が、しかも現行法の八十六条は宗教法人なるがゆえの違法、不法は許さぬと書いてあるわけですから、普通に動き出せば済んだことであります。現に改正前に動いて今処理されているわけであります。
そして、念のためにいろいろ今後は聞いておけばと言いますけれども、確信犯、御存じのとおり犯罪を正しいと信じてやっている者たちは報告書でうそをつくことなど何とも思っていないと思います。ですから、ああいうものをもし予防するための改正だとするならば、それはやはり効果がないと政府の方でもそれらしきことを言っているわけで、これはそういう認識のもとでもっと本気で対策を考えたらよろしいと思います。
一つは、むしろその点では、さっき百地先生も御指摘のとおり、何か宗教はタブーというその風潮に問題があったわけです。それは法改正によって今度その風潮が取られたわけではなくて、オウムの気違いざたで我々はその風潮を取り払うことができた、これは不幸なオウム効果でありまして、決して改正の効果ではないと私は言えると思います。
とりあえず以上でございます。
○山下栄一君 所轄庁の問題でございますけれども、現行法の五条では宗教法人の所轄庁は原則として都道府県知事であると、こういうふうに規定されているわけでございますけれども、この制定趣旨ですね、なぜ原則として都道府県なのか、このことについて小林先生、お願いいたします。
○公述人(小林節君) これは立法過程の資料とか実務家のお話を伺うと、私は当時赤ん坊でしたから知りませんでしたけれども、調べますと一応出てくることとして、要するに法の趣旨があくまでも宗教法人を社会に生み出す、これはしょっちゅう批判されますけれども、出生届の受理に原則として尽きる。となれば、宗教というのは最初は一人の方から始まるわけで、その周りにだんだん賛同者が集まって宗教らしき形になったときに、先例に従って宗教らしいものを特段の違法が見られない限り宗教と認定し登録する、そして世の中に動き出させていくということですから、当然それは霞が関の文部省ではなくて地元の県知事がふさわしいということであったと理解しております。
○山下栄一君 あともう時間がございませんので、何点か小林先生にお聞きしたいと思うわけでございます。
私は、今回の衆議院、参議院の審議を通じましてこの改正案の不備が非常にはっきりしてきたと、このように思っているわけでございます。まず、書類提出義務でございますけれども、国政調査権と公務員の守秘義務との関係でございますが、国会において宗教団体から所轄庁に提出された書類等の問題につきましてさまざまなことが取り上げられた場合に、もうこれは基準がない場合は非常に大きな信教の自由にかかわる問題が出てくるのではないか、このように思うわけでございます。
国政調査権と守秘義務との関係につきまして小林先生のお考えをお聞きしたいと思います。
○公述人(小林節君) 国政調査権というのは、日本国の国権の最高機関の各院がその本務を全うするために必要な調査機能で、これは尊重されねばならない。けれども、これは講学上も先例上も、重大な公益に害がある場合とか関係者の人権を害する場合には当然国政調査権でも御遠慮願うという関係であったと思います。これはある程度のガイドラインがありますけれども、この先いろいろ微妙なトラブルがここから起きると私は思います。
○山下栄一君 附則二十三項の小規模法人の基準といいますか、これも不明確であろうと、このように思うわけでございますけれども、この点につきましてお願いしたいと思います。
○公述人(小林節君) これは、先ほどもちょっと論及いたしましたけれども、運用次第によっては大変な負担になるかならないかですから、これは差別であったり時にはおどしの材料にもなりかねないものであります。
そうなりますと、当然これは信仰活動の存立にかかわる部分ですから、適用されるかされないか、これは本来立法事項だと思います。これを法律でブランクにしてあるということは、政令か省令でと。ということは、内閣か担当庁の裁量でということで、これは私は立法としてかなり乱暴である。とりわけ、先ほど来申し上げておりますように、優越的人権の領域でありますから、こういう雑な立法はよろしくないと私は思います。
○山下栄一君 報告徴収・質問権でございますけれども、この七十九条から八十一条の権限行使、権限につきましては規定されておる。それを裏打ちする、調査する権限が所轄庁にないという、そういうことでございましたけれども、これにつきましては先ほども小林公述人が触れられたわけでございますが、もともと不備であったのか、なぜ現行法には権限を与えながら質問等の調査権を与えなかったのかということにつきましてお願いしたいと思います。
○公述人(小林節君) これは二十六年の立法時の議事録などを見ていきますと浮かび上がってくるんですが、議論した上であえて調査権を与えていない。つまり、ここで調査権まで与えると宗教自由法ではなくて宗教管理法になってしまう。だから、一見中途半端で、いざというときの解散請求などは最後の手段として用意しておくが、あえてそれに当然必要そうに見える調査権まで置かない。すなわち、文化庁、文部省を宗教管理庁にしないというその立法趣旨であったわけであります。それが今回は類似の権限が入るわけですから、私は賛否は別として、本来、法の本質が変わるわけですから、堂々の御議論をしてほしかったと思います。
○山下栄一君 閲覧請求権でございますけれども、この請求権者であり、また信者、利害関係人の定義が不明確といいますか、それがないという、この国会論議を通じまして明確になったわけでございますけれども、この点の問題につきましてよろしく、小林先生の方から。
○公述人(小林節君) 私は二段構えでそれは問題だと思っておりまして、まず定義がないことは問題でございますが、仮に定義をしても、利害関係人すなわち信者が典型でございますが、信者というのは信教の自由がある限り出たり入ったり自由にできるわけですね。人というのは気持ちが高ぶったり下がったりいろいろあるわけでございますから、そういう意味では、正当にその瞬間信者であった人が資料を引き出して、それが別の政治的目的とかあるいは経済的目的、恐喝とかそういう目的の人たちに流れていってしまう。
ですから、先ほども申し上げましたが、この利害関係人という定義がないことも問題ですけれども、仮に定義があろうとも、そういう形でもとより情報垂れ流しの仕組みにしてしまうということは、それは本来、結社の自由、各宗教法人の自治にゆだねるべきことであって、公権力が法で強制することではないという問題にぶつかると思います。
○山下栄一君 幾つか問題提起させていただいたわけでございますけれども、まとめまして、提出義務の中で国政調査権の問題、小規模法人の基準の問題、また報告徴収・質問権の問題、それから閲覧請求の問題、それぞれ非常にはっきりしない部分が大変多い。法律事項にもかかわらずそれが明確に規定されておらないという、そういうことでこれは非常に行政の裁量の余地が大きい法律である、このように考えるわけでございます。
もともと現行の宗教法人法は政省令が全くない、そういう非常に厳格な、法律の中で規定していくという、信仰の自由の観点からそういう法内容になっているわけでございますけれども、今回申し上げました観点から非常に行政権の裁量の大きい内容になってしまっておる、このように考えるわけでございますけれども、このことにつきまして法改正に賛成しておられます百地公述人からお考えをお聞きしたいと思います。
○公述人(百地章君) 私もこの宗教法人法が制定されたいきさつとかについては余り詳しく勉強したわけじゃありませんが、若干読んだりしております。
まず、その背景は、先ほど意見陳述のときに最初に申し上げましたとおり、二十六年ですか、まだ占領下でございます。したがって、GHQはやはり自分たちの意向というものを残しておきたかった、宗教法人令の延長で考えていたところがあります。宗教法人令というのは、宗教団体というのは専ら届け出ですべて認められておりましたように自由放任しておく、国は介入すべきではないという、そういう徹底した立場をとったのがGHQであります。したがって、そういう考え方がずっと流れてきておりますので、確かに宗教法人法にはそういう考え方が残っていると思います。
しかし他方、占領が終わり、講和独立に伴って日本が主権を回復する。それで、改めて日本が自主的な立場で再検討しようという動きが出てきたのがこの一方の流れであります。したがいまして、実際不備がありましたから昭和三十一年には早くも審議会に諮問がなされておりまして、二年ぐらいかけて答申が出ているわけですね。ですから、そのGHQの意向だけを問題にすれば、そういう放任とかあるいは政省令でもってやらないとかそういったあれが出てきますが、じゃ日本の自主性というのはどうなのか、その動きも考えなくちゃいけないんじゃないかというふうに思っております。
○山下栄一君 もう時間がなくなってしまったわけでございますけれども、今回の法改正論議を見ておられて、オウムから始まって創価学会で終わるというふうなあれになってしまったわけでございますけれども、私はこのことにつきまして小林先生の方のお考えをお聞きして、終わりたいと思います。
○公述人(小林節君) 結局、本当の争点が宗教団体の政治参加であるということが明らかになった。これは大いに議論すべきことであると思います。その点では私は、政治というのは権力を握るないしは権力に影響を与えることが目的であるというのは当たり前のことでありまして、であるから宗教団体にだけそれがおかしいという議論の立て方は、じゃ農業団体は、医師会は、あるいは全盛期の自民党派閥はどうなのかという問題が残るのかなという気がいたします。
以上でございます。
○山下栄一君 どうもありがとうございました。