145国会 文教・科学委員会会議録 1999年05月18日
○山下栄一君 きょうは、参考人の皆さん、本当にお忙しいところありがとうございます。限られた時間ですけれども、聞きたいことが幾つかございますので、よろしくお願いします。
大学の役割の中で、私は、これは軽視されてきたのではないかというふうに思うのが、大学は教育するところであるという観点でございます。初等教育、中等教育、高等教育と言うけれども、高等教育の機能は本当に果たしてきたのか、そういうことが日本の大学の場合に問われるのではないかという認識を持っております。
その認識が正しいかどうかということも含めてお聞きしたいわけでございますけれども、何か大学の先生というのは研究の成果によって評価されるという面が余りにも強くて、教育面で一生懸命頑張っても評価されにくい、そのような現状があったのではないかというふうに感じておるんですけれども、この認識についてそれぞれの先生のお考えをまずお聞きしたいというふうに思います。
○参考人(天野郁夫君) 日本の大学が教育不熱心だという指摘は非常に人口に膾炙しておりまして、皆さんがおっしゃるわけですが、私は、少しこの点については申し上げたいことがあります。
まず第一に申し上げておきたいのは、日本の大学はどこと比べて教育不熱心なのか。それは、アメリカやイギリスのようなアングロサクソン系の大学に比べてであります。ヨーロッパの大学に比べればはるかに教育熱心だと言っていいと思います。これが一点です。
もう一点は、どの大学を見て不熱心だと言うかという問題であります。これは、研究機能の強い大学は押しなべて教育不熱心でありますが、研究の機能がそれほど強くはない、つまり学部の教育が中心である大学では現在でも既に極めて教育熱心であらねばならないような状況になってきているわけでありまして、こういう大学に教育が不熱心だということを言うことはできないというのが二点目であります。
三点目は、これは矢原参考人の先ほどの御指摘にもありましたが、世代的な問題であります。どういう人たちが不熱心なのか。若い世代になればなるほど上の世代の不熱心に不満足でありますので、自分たちはこれではやっていけない、もっと熱心にならざるを得ないというふうに思っておりますし、また、外国の大学の経験も持っておりますから、この世代は相対的に見ればずっと教育熱心であります。ですから、日本の大学全体が教育不熱心であって、国際的に見ても大変に低い水準にあるという見方は間違っております。
問題は、トップレベルの大学における教育不熱心の問題だというふうに思います。私は、真ん中レベルでありましたら、これはアメリカの普通の大学に匹敵するぐらいかなり教育熱心にやっている大学が多いと思います。しかし、いわゆる研究大学と呼ばれているところの先生方の中には、学生は教師の背中を見て育てばいいんだ、ノーベル賞が何十年かに一人出れば、あとは一将功成って万骨枯るでもいいんだと思っていらっしゃる研究重視の先生方というのは依然としていらっしゃる大学が少なくないということは事実であります。
ある大学では教授法の改善のためのセンターをつくりましたけれども、そこにやってくるのはほかの大学の先生方であって、自大学の先生方は余り関心をお持ちにならないという非常に残念な現状もございます。
しかし、こういう状況でやっていけるわけではありませんで、むしろ研究重視の大学でも学部段階の教育をきちんとやらないと優秀な研究者が育たないということが少しずつ認識されてきておりますので、私は、早急に数年のうちに大幅に変わるということはないにしましても、じわじわと変化は進行していくのだろうと思います。
そういう中で、教員の評価にしましても、それは研究を重視する大学が研究能力の高い教員を雇おうとするのは当然のことでありますが、教育重視の大学では既に教育能力の高い人たちを集めるためのさまざまな努力が行われています。その一つは、例えば新設の、新名称の学部に多いわけでありますが、企業を含めて、大学院からやってくるのではないタイプの教員を採用するところがふえております。これは、学生たちに何を教えることができるのか、研究者としての経歴よりも、それまでの職業経歴や何を教えることができるのかという能力に注目しての採用であるわけでありまして、大学は、したがって、ある部分で非常に大きな変化が起こっているということを認識いたしませんと、一般論として教育不熱心論というのは、私は妥当性がないのではないかというふうに思っております。
もちろん、アメリカと比べますとまだまだ日本の大学は押しなべて教育に不熱心だということは言えると思いますが、繰り返しになりますが、例えば、フランスやドイツの大学は入った人たちを半分以上落とす。すばらしい大学じゃないかというのは、あれは教育不熱心だから落第するわけでありまして、日本のように入った学生を八割、九割手とり足とりして送り出すというのは、これは教育不熱心だと言っていいのかどうかという問題も考える必要があるのではないかと思っております。
○参考人(門脇厚司君) 日本の大学全般については、私自身も天野参考人と似たような感想を持っております。一律に不熱心であるというようなことは言いにくいんじゃないかと思います。
筑波大学に限って申し上げても、学類によって大分違うし、その先生によっても大分違うんじゃないかというふうに思います。私自身、人間学類の学類長を四年間務めながらかなり口を酸っぱく言ったのは、教育、もちろん筑波大学の学類というのは教育組織ですから教育を充実させるということは最大の使命でありますから、学類長としては何度も何度も繰り返しながら言ってきていたわけですけれども、そういうことを言い続けないといけなかったということは、なかなか私が期待するような水準までは行っていなかったということの裏返しでもあるということです。
私が所属していたところは、教育学ですとか心理学ですとか、心身障害学と言っています特殊教育ですとか、そういう学問を専攻しておる先生方が中心になっていますけれども、そういうようなところは、直接人間を育てるということで教育をそれこそ重視しないといけないところでありながら、なかなかそういうふうな形ではいかなかったというところは残念なことでした。
先ほど矢原参考人が言っておりましたけれども、仮にボトムアップというようなことをすれば問題はないんじゃないかというふうな御発言があったかと思いますけれども、学類長として残念に思ったことは、学類長が学類のカリキュラムの編成権を持っているということには筑波大学の場合なっているわけですけれども、ことしこそは学生が好むようなカリキュラムの編成をしたいというふうに私が思っていたとしても、どうしても自分がこれまで研究をしてきたことを教えるというようなことがやっぱり中心になって、学生が知りたいということに対応するような形の授業をするというようなことはなかなかやっぱりできなかったというのが実情です。
というのが実情ですけれども、全体として見れば、教育をおろそかにしてはいけないというような雰囲気は、若手はもちろんですけれども、高齢の先生方もそういうようなことについてはかなり意識して改善に努めるような雰囲気は徐々に出てきているというふうには申し上げてよろしいと思います。
○参考人(矢原徹一君) 大学の教育という場合に、全学共通教育と学部の教育と大学院の教育、この三つを分けて考える必要があると思います。
全学共通教育と申しますのは、例えば、私は専門が生物ですけれども、一、二年生の生物学は別に理学部の学生だけがとるわけではございませんで、ほかの学部の学生もとるわけです。ですから、ほかの分野に進む学生に教育をする。それから、学部の教育というのは、これは理学部の生物学科に進んだ学生の教育ですから、九大であればかなりの人が大学院に進むし、そうでなくても生物学を生かした職につきたいという人に教育をする。大学院になるともっと専門的な教育をするわけです。
教育不熱心と言われる部分は、私はやはり全学共通教育のところにあるんではないかと思います。大学院教育や学部教育に中心で携わっているいわゆる学部の先生にとっては、自分の分野に進んでこない、例えば理学部の先生が文系の学生を教えるということになると、これは大変つらいことなわけであります。例えば、生命倫理というようなことを生物の先生に教えろと言われても、やはりかなり勉強しなきゃいけない。研究時間も限られていて非常に忙しい中でいろいろ勉強して教えなきゃいけないというのは、これは大変なことであります。ですから、気持ちはあってもなかなか熱心になれない、やっぱり研究に目が行ってしまうという面は確かにございます。
一方で、教養学部あるいは旧教養部の先生方、今は大綱化によって大部分の大学で学部に吸収されて教養部というのはなくなってしまいましたけれども、しかし、ずっとそのいわゆる教養教育に携わってこられた先生方は、やはり一、二年生を教えるということに非常に大きな生きがいを感じていらっしゃる方が多いです。ですから、学部の先生方に比べると、自分の専門分野以外に進む人にもぜひやっぱり、例えば生物学というのは二十一世紀においてはあらゆる学問に必要になると思って一生懸命教えていらっしゃる方は多いです。
ですから問題は、私は、今、教養部がなくなってしまって、全学共通教育というところに一種の混乱が生じていまして、これをどう学部の先生方と旧教養部の先生方と協力してよりよいものにしていくかというところで模索をしているという段階ではないかと思います。そういう過程で、私のように教養も学部も両方経験したという者が学部の方におりますと、やはりうまく橋渡しができて、いろんな議論も今進んでおりまして、そういう中で新しい形がどんどんできていっているんではないかと思っております。
○山下栄一君 ちょっと天野参考人にお聞きしますけれども、この教育機能の面で、特に大学院でなくて学部の方なんですけれども、先生も先ほど触れられました教員採用のあり方なんですけれども、教員を採用する、まず選考するときに、大学院出身、例えば修士課程、博士課程の方であるならばどうしても教育面というのは苦手な面もあるんじゃないかなというように思うんです。そういう意味で、この教員採用のときに、先ほど矢原参考人もおっしゃいましたけれども、教育面に熱心というか、熱意を持っている方というようなものを選考基準の中に入れるかというようなこと、お考えになっている方向というのは広がっているのか、現状をちょっとだけ短時間で教えていただきたい。
○参考人(天野郁夫君) 先ほど教育不熱心の話をしましたが、最近問題になってきておりますのは、教育不熱心の問題よりも学生の側の学習不熱心の問題だということもちょっとつけ加えておきたいと思います。
そこで、教員採用の問題ですが、教育熱心な教員を採用するという傾向は、これはもう既に一部の私立大学ではずっとこういう傾向は広がってきていると言っていいだろうと思います。しかし、先ほど申しましたように、研究重視の大学ではそういうことは余りやっていない。
私は、これは問題が二つあると思うんですが、大学の教員というのは何よりも教育をするために雇われている人間だ、これはアメリカの大学では常識であります。大学院で学生を教えますときに、あなた方は研究ではなくて教育をするために仕事をすることになるんだと。ですから、アメリカの大学に広く広がっているティーチングアシスタントという制度がありますが、TAと呼ばれています。このTAは先生の教育の助けをするわけですが、それは同時に将来の教員としてのトレーニングにもなっているわけです。ですから、ただTAをやれというだけではなくて、ちゃんとプログラムをつくって、そこで大学院生たちがどういうふうに学生を教えるのかということについて、評価をどうするのかというふうなことについて基本的なことを学んだ上で先生のアシスタントになるわけでございます。
日本でも数年前から、これは文部省の御努力でようやくTAの制度が入ってまいりましたが、なかなかこれは単に学生を使ってそれに若干のアルバイト費を払うような形を出ておりませんで、トレーニングの場としてTAを使うという考え方がまだ定着をしておりません。大学の先生になってからでは遅いとは言いませんけれども、なる前に大学の教員としての自覚を持ってもらうような訓練のシステムを大学院レベルで持っておかなければいけない。
なぜならば、大学の先生たちが養成されます大学のほとんど全部が研究大学であります。そこに大学院の学生が入ってきまして、研究面での成果を競っている場所であります。そういう人たちが将来さまざまな大学の先生になっていくわけでありますから、こういう大学でこそ、将来教員として職務を果たすためには何をしなければいけないのかということをあらかじめ教えておかなければいけないということが一つあります。
それから、採用の問題について言えば、これもアメリカの大学は非常にすぐれていると思うのですが、採用を予定しております候補者を多くの大学が大学に招いて、そこで大学院生や学部の学生を前にして実際に講義をしてもらう。そして、その意見を聞きながら最終的な候補者の選定をするということをやっています。ですから、必ず複数の候補者を選んでその候補者を競わせるというようなことをやっております。
これは、日本のように、教員採用がマーケット化しておりませんで、個人的に、おい来てくれよ、お前どうだというふうな形をやっている限りはなかなか実現されないやり方でありまして、教員の市場そのものがオープンになれば、どういう能力を持っている人を雇うのかということがもっとフェアにオープンに行われるようになるだろうと思います。
現段階では残念ながら非常に個人対個人の関係で行われているわけでありますから、なかなか教育能力の高い人を見分けるというのが難しいわけでありますが、幸か不幸か、大学院の大拡充をやっておりますので、大学がもう発展しなくなる中で大学院生の数だけはどんどんふえていくわけでありますので、やがて教育の能力のない大学院生が採用されないというふうな事態になれば、市場の圧力で変わるのではないかと皮肉な見方をしております。
○山下栄一君 門脇参考人にちょっとお聞きしますけれども、筑波大学方式、もう二十五年たつわけでございますけれども、改革方式が大分普及してきたことが今回の法改正につながったのではないかなというふうに思うのです。
その中で、運営諮問会議ですけれども、この運営諮問会議のメンバーの人選基準のあり方ですが、これはどこで決めるんだと。私はそれぞれの大学で決めるべきではないかという考えも持っているわけですけれども、今回の法律でははっきりしておりません。筑波大学の現状と、運営諮問会議の人選基準というのは僕は国がつくるべきではないと思うのですけれども、それぞれの大学でという考え方についてのお考えをお聞きしたい。
それともう一つ、先生は附属学校の問題について具体的な大きな課題であるとおっしゃっていますけれども、その内容を教えていただきたい。
以上でございます。
○参考人(門脇厚司君) 最初の御質問ですけれども、運営諮問会議は筑波大学では参与会というふうに言っていたわけですけれども、どういう基準で選考していたかについては、私自身かかわりを持ったことがありませんので、今明確にお答えすることはできません。
私が見るところ、産業界ですとか茨城県の県知事も今現在参与会のメンバーになっておりますし、筑波大学で長く教鞭をとられて副学長経験者で私立大学の学長になっておられる方とか、あるいは有馬先生もなっておられるのかもしれませんね。私が見る限りではふさわしい人を選んでいるのではないか。
どういう基準で選んでいるかはともかく、こういう人であれば相当に前向きな建設的な助言、提言をしていただける方々であるなというふうに私自身は見ております。妥当な選び方を少なくともこれまではしてこられたのではないかというふうに思っております。
あと、附属学校についての問題ということですけれども、私は多分、筑波大学の構成員の中では、現在筑波大学は十の附属学校を持っておりますけれども、附属学校については一番厳しい見方をしているのではないかと思います。ですから、附属学校の先生方には、いい意味ではなくて悪い意味で私の名前が一番知られているんじゃないかというふうに思っております。
それは、一部民営化論というのを、これは学類長としての案ではなくて門脇個人としての案を言っている者として一番憎まれ役を買っているのではないかと思います。現在の筑波大学に限らずですけれども、国立大学附属学校というのは多分二百六十校ぐらいあると思いますが、現在のあり方というのは相当に考えるべきことじゃないかというふうに思っています。
附属学校の存立基盤というのは、これは国立学校設置法か何かに、ちょっと今手元に詳しい資料がありませんけれども、そこでなぜ必要かということが二つあると思うんです。一つは、教育実習をするときの実習校として協力するということが一つ。それからもう一つは、教育に関する研究の協力をするというようなことであるわけです。
私は、これから国立学校が存在し続けるためには、大学の教育そのものに附属学校が相当に協力するというようなことにならないと、その存在意義はないんじゃないか。とりわけ教員の養成をするというようなことを目的にしている大学については、特にそのことは強調されないといけないことだと思いますけれども、仮に教員の養成を目的にしていない大学にしても、現在の大学における教育そのものをサポートできるようなことが国立学校の存在意義の中にいわば明確に書かれるべきことだ、規定されないといけないんじゃないかと思っております。
現在、筑波大学の十校が果たしてそういうような役割をしているかというと、これは距離的な問題もあるわけです。筑波大学があるところから現在ある附属学校までは六十キロないし七十キロぐらいあって、相当朝早く弁当を持っていかないとたどり着けないというような距離があるものですから、ここのところを何とかするためには筑波大学のキャンパスのすぐそばにないといけないというようなことも絡めて、私は一部民営化ということを強調していることになるんですけれどもね。
最後にちょっと申し上げれば、繰り返しになりますけれども、大学の教育それ自体に附属学校というのは全面的に協力するような形の規定の仕方をぜひ希望したいというふうに思っております。
○山下栄一君 終わります。