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参議院文教科学委員会公聴会(2007.6.15)

公明党推薦公述人・前市川市教育委員会教育長・最首輝夫氏陳述



○公述人(最首輝夫君) 御指名をいただきました公述人の最首輝夫でございます。
 教育現場からの視点からの教育改革について少しばかり考えを述べさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
 毎年なんですが、新しく校長になった、あるいは教頭になった、あるいは教育委員会から戻ってきた、また校長になったとかという人たちから連絡といいますか情報が入るんですが、今年目立っていたものが保護者対策で大変だという言葉がかなりありました。本来、学校というのは子供の教育を担うところであり、そのために校長は、教職員と力を合わせて保護者や地域の人たちと協力を得て子供たちの成長、発達を支えていくためにその持つ教育力を結集していくというのが正しい学校の在り方だろうと思うんですが、おかしいなというふうに自問してしまうことが多くありました。学校は、子供以外の問題を抱えていては本来の子供に対する教育というのが非常に薄くなるんではないかなということを恐れております。
 では、その学校を支える教育委員会はどう対処しているのかといいますと、教育委員会というのは、私もおりましたが、一般的に役所化しておりますので、法律にのっとり指示、助言あるいは指導というのは行いますが、それを受けて実際に子供の指導に当たるのはやっぱり学校、教員ですよね。ですから、その教員がどう努力をするか、どう楽しいといいますか、元気で学校で過ごせるか、子供に直接触れ合うかということが一番重要なことではないかと思うんです。
 同じことは、都道府県教育委員会とか文科省についても同じです。都道府県教育委員会というのは、市町村から報告は求めますが、その解決については該当教育委員会でやってくださいよというお返事がいつも返ってきます。ただ、今問題になりました隠ぺい体質というのは、私は具体的には申しませんが、都道府県教育委員会にあったことは認めております。
 もう一つ、首長又は首長部局と教育委員会、学校の関係なんですが、首長の考え方にもよりますけれども、教育委員会を信頼して一切を教育委員会にゆだねて、それを行うため、施策を行うために予算あるいは支援を積極的にする首長がおります。一方で、自らの選挙公約とか自分の考えにあるいは政策にこだわるという傾向があって、それ以外のものについては余り協力をしないと、また、そういうものを実現しないと教育委員会に非常に不快な思いを伝えてくるという極端な首長もいることは事実でございます。この差が、実は地方分権になったときに大きな課題になるのではないかなというふうに私は現職のころ思っておりました。
 では、こういう実態、今申し上げました学校、教育委員会あるいは首長部局、役所、そういうものがどうしてこういう実態が起きてきているのか、その背景について私は次のように考えております。
 皆さんもお気付きと思いますが、教育の中央集権化というのが戦後進んでまいりました。学校はその末端機関と位置付けられて管理されることで、教職員というのは上からの指示、命令、そういうものの言いなりにならざるを得ない。そういう形で、学校あるいは教職員というのはこれまで長い年月を過ごしてきています。したがって、教育委員会も学校も、問題の起こることを恐れる余り、国の方針、指示に従うという指示待ち機関というふうに特別な言葉があるんですけれども、指示待ち人間、指示待ち何とかってありますが、教育委員会もそういうふうになってしまったということを言われておりました。教育委員会が思考停止になったということを言っている人がおりましたけれども、こうした国支配の状態が長く続いた結果でありまして、教育委員会の体質になっていることは事実でございます。
 自由で独自の発想や創造的な施策や、そういう教育ができない、あるいはしない方が得策だと、こういう思いを持つ、そんな雰囲気が、私が教育委員会に入ったときにございました。校長は教育委員会を気にしますし、教育委員会は都道府県教育委員会や文科省を気にする、こういう空気が支配しておりまして、上を常に意識するという雰囲気がありました。
 管理社会というのは、御存じのように多忙化します。ホウレンソウなどと言って、一々一つのことについていろいろ上司に相談をしなければいけないと、あるいは文書処理なども大変多くなります。そういう管理社会の中に組み込まれた学校も、教員は多忙で、子供に接する時間が極度に少なくなってきています。私が教員になった一九五〇年代は、子供も教員もゆったりしていました。時間や事務仕事に追われることはほとんどなく、常に子供とともにいました。
 教育の最前線、子供に一番近い学校現場が管理される末端機関とされたことで、本来の教育現場とはほど遠く息苦しいところになっていることも事実でございます。これで良い教育ができるとは言いかねる状況があります。
 また、最近とみに教育関係者の責任が問われます。自由と責任、権利と義務と言われますように、自由には責任が伴い、権利には義務が伴うものですが、自由が保障されないのに責任だけが問われるとか権利が与えられていないのに義務を果たしてないと追及される、そういう理不尽がまかり通っていることも現実でございます。これは何も教育界だけではないのですが、学校も教員にも自由は与えられていませんが、責任だけは問われています。このような中で教員は萎縮し、自信をなくしています。今、学校現場では責任と競争に押しつぶされようとしているという状況がございます。
 日本の社会で教育環境として辛うじて崩壊を免れているのは、唯一学校だけだと私は思っています。子供の視点に立った教育、学校現場の視点に立った教育システムづくりを急がないと、唯一崩壊していない学校も崩壊してしまうのが目に見えています。
 次に、今後の改革の在り方についてですが、二つの観点から考えてみたいと思います。一つは分権型社会を目指すという観点からで、もう一つは教育の本質という観点から考えてみたいと思っています。
 今審議中の地教行法を始めとした教育関連法案は、いずれも集権時代に作られた法律です。本当に日本の教育を再生したいと願うならば、これらの法律を抜本的に作り直すことが必要と私は考えます。手直し程度では法の精神は変わらないわけですから、教育が変わるはずはないと思います。いずれにしても、これからは本来の教育に即した教育を実現するために国も地方も一つにまとまっていただきたいというのが私の現場からの願いです。
 私の個人的意見としては、既に限界に来ている行政主導体制から脱却して、地方教育委員会と学校に権限のほとんどを移譲し、自由と権限を持たせることによってそれに伴う責任と義務というものが発生してきます。それが一番だと思っています。そういう場合は、責任、義務というのは現場が負うことになります。事実、日本でも地域の子供は地域が責任を持って教育するんだという気概に燃えている地域があると聞いています。そういう地域は、教育だけではなく住民や産業など、すべてが生き生きしているとも聞いています。
 また、競争主義を持ち込めば教育が変わるか、私はそうは思っていません。イギリスの教育は競争による弊害が出てきているようです。日本でも、学力テストの成績を上げるために学校を競争させ、それによって学校予算を増減するといったようなとんでもないことが起こっています。一体、競争というのはだれのためにするんでしょうか。予算はだれのために使うんでしょうか。考えさせられてしまっています。
 管理は教育の自殺行為であるという有名な言葉があります。管理教育は、実は生徒にとっても教師にとっても最も甘い教育なのだというふうに考えます。それはどういう意味かといいますと、上から与えられた枠組みに無批判に従う主体性のない人間をつくるにすぎないからだといいます。これは到底教育の名に値しない。
 管理によって、まず何よりも創造性と活力を奪われます。さらに、管理は主体性を奪い、自分で考え自分で判断する力と自信を根こそぎにします。管理の下では自分の思考や自分の判断は無用だからです。邪魔になるんです。自己主張は管理への反逆とみなされるから、管理の命ずるままに従うことが一番だと考えます。そのことによって、自分に自信をなくしていく。常に周囲に気を配り、周りと同質となることで安心しようとする。結果、自分で生きるのではなく他力に従って、危険なく、損なく、そつなく、何事もすり抜けて生きていこうとする安易な生き方に堕するのです。管理教育はこんな人間を育てているのです。
 これは教育の名言を集めた本の中から紹介したものですが、この考え方というのは、子供たちではなく、教員や教育委員会職員にも当てはまる言葉だと私は考えています。自由を与え、責任を持たせ、主体性や創造性を養うことが教育では何よりも必要だと私は考えています。
 去年来日した「第三の波」などの著者、アルビン・トフラー氏は、日本のあらゆる制度改革、その最大の障壁となっているのが官僚制度だと言っています。さらに、もうそういう時代ではないとも。一九〇〇年代半ばから始まった知識革命の第三の波では、教育の画一性は個性や創造性に取って代わったと言っています。新しい人間に育てるには、新しい、しかも革命的な教育制度が必要だが、日本はそれにはほど遠いものがあると言うのです。こういう言葉に謙虚に耳を傾け、日本の教育の遅れを取り戻したいものです。
 公述を終わるに当たり、教育の現場を預かった者の一人として是非申し上げておきたいことは、現場、特に学校や教職員は、日本の集権管理の教育システムの下に、自由も裁量権もない中で、国で定められた指導要領の内容を、与えられた教科書と一律に編成される教育課程を基に言われるままに、しかも必死に努力をしているということを忘れないでいただきたいのです。一部に、問題を起こしたり不適格な者もいることは事実です。それをもって学校はあるいは教員は駄目だという評価や世論喚起をすることは、ますます学校や教員に対する不信感を募らせることになり、優れた人材流出を加速し、教育に情熱を持ち、これから教員を目指そうとする若者たちに冷水を浴びせることにはなりはしないかと危惧しています。
 教育の基本となるものは信頼です。信頼なくして教育は成り立ちません。私は、この信頼という言葉を常に使ってまいりました。今その信頼が現場にはない、これが現実です。資料にあるローレンツの言葉がそれを示しています。人間は、好きで尊敬する人からのみ伝統を受け継ぐことができる。これは、繰り返し私は教育長時代に申し上げました。これを大事にして教育に当たる教員もかなり出てきました。子供たちに信頼されるということ、これがやっぱり教育にとって一番の基本だということを表していると思います。
 国は、教育予算の増額あるいは理念、ビジョンなど標準大綱を作り、後はほとんどの権限を現場に移譲する。そして、現場が子供のために知恵を出し合い、責任を持って子供の人間形成を支援する。行政は教育環境の整備に徹し、それを支える。これが世界に誇れる日本教育への唯一の道ではないかと思っています。教育は学校だけでできるものではありません。国民の総合力です。それは、できるだけ多くの人たちの共感と理解が必要です。そのためにも、現場の人たちを交えた国民的な議論と情報の公開が必要と考えています。押し付けの改革では反発を招くだけで効果を上げることはできないと思います。現場に視点を置いた教育改革でなければ教育再生というのは難しいと私は思います。
 以上でございます。御清聴ありがとうございました。

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