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「カネミ油症問題で公明新聞に連載記事」



■第1回「カネミ油症と公明党」事件発生直後から被害者救済に全力/調査団など派遣し悲惨な実態を調査(2007年6月27日付)

■第2回「カネミ油症と公明党」「坂口答弁」でダイオキシン被害に光明/PCDFが主原因 認定基準を見直す(2007年6月28日付))

■第1回「カネミ油症と公明党」事件発生直後から被害者救済に全力/調査団など派遣し悲惨な実態を調査
(2007年6月27日付)

 今月1日、カネミ油症被害者の仮払金返還義務を免除する特例法が成立。発生から39年を経たカネミ油症事件は、被害者救済への大きな一歩を踏み出した。同事件は、カネミ倉庫(本社・北九州市)製の米ぬか油にダイオキシン類のPCDF(ポリ塩化ジベンゾフラン)などが混入して起きた食品公害事件。1万4000人以上が被害を届け出た(認定患者は約1900人)が、根本的治療法はなく、被害者は今も、吹き出物や、しびれなどの症状に苦しんでいる。公明党は、事件発生直後から救済に奔走。今回の特例法など救済策策定でも主導的役割を果たした。被害者の全面救済に走り続ける公明党の闘いを追う。
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 油症事件が発覚したのは1968年10月3日。カネミ製の油を食べた男性が福岡県大牟田市の市保健所に身体の変調を訴え出たのがきっかけだった。
 公明党の対応は素早かった。同15日、原田立、内田善利両参院議員(当時)らが、油の鑑定をした久留米大学教授から事情聴取。翌16日には、田中昭二衆院議員(同)と内田氏が九州大学の油症研究班を緊急訪問。北九州市議会公明党の岡田義信市議(同)らも、同市に早期対応を求めるとともに、カネミ倉庫を視察した。同19日には、党米ぬか油問題特別委員会(伏木和雄委員長=衆院議員=当時)を発足、他党に先駆けて被害者救済に立ち上がった。
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 だが、政府の救済対策は遅々として進まず、業を煮やした公明党は、72年7月と75年1月の二度、被害者の多発した福岡県や長崎県玉之浦町、奈留町、福江市(いずれも現五島市)などに党油症調査団(小平芳平団長=参院議員=当時)を派遣。被害者や医師などに会い、実態を調査した。
 当時、東京で被害者と連携を取り合っていたカネミ油症東京連絡会の西川和子さんは、「会った議員の中で、すぐに現地に飛んでくれたのは小平さんだけ」と振り返り、72年の調査団に、視力の減退や体のしびれなどを訴えた旧玉之浦町の認定患者T・H(77)さんも、「公明党は人間味があり、頼みがいがあると感じた」と、今も感謝する。
 その後、小平氏らは、綿密な調査を基に、治療研究の促進や認定基準の見直しなどを求めた質問主意書を繰り返し政府に提出。国会質問などで被害者救済を再三にわたって訴え続けた。
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 だが、当時、公明党は野党。政府の対応も冷淡そのもの。一方で、被害者が国などを相手取った全国統一民事訴訟(全5陣)が展開され、運動の比重も裁判闘争に。同闘争で、原告は1陣2審、3陣1審で国に勝訴するが、86年の2陣2審で一転して敗訴。原告が国への訴えを取り下げたため、"油症事件は終わった"と、社会的関心も薄らいだ。以後、公明党がダイオキシン問題として再び取り上げるまで、被害者は、長い苦しみと沈黙を強いられることになる。

■第2回「カネミ油症と公明党」「坂口答弁」でダイオキシン被害に光明/PCDFが主原因 認定基準を見直す
(2007年6月28日付

 「ダイオキシンが主原因である以上、即刻(診断基準を)見直したい」。2001年12月の参院決算委員会。カネミ油症の患者認定基準見直しを求める公明党の山下栄一参院議員の質問に、坂口力厚生労働相(当時)が、こう答えると、居並ぶ厚生労働省の官僚の間に、ざわめきが起きた。
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 事件当初、カネミ油症の主原因は、PCB(ポリ塩化ビフェニール)とされていた。だが、1970年代、油症治療研究班の研究で、PCBよりも毒性の強いPCDF(ポリ塩化ジベンゾフラン)が油症に関係していることが判明。88年には、PCDFがダイオキシン類に分類される見解も出たが、認定基準は、その後もPCBが主因との基準のまま放置されてきた。
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 ダイオキシン対策に取り組んできた山下氏が、99年3月の予算委員会以後、執拗に、「カネミ油症はダイオキシンが原因」と訴えてきたが、官僚側の姿勢は頑なそのもの。認めようとはしなかった。
 坂口答弁は、こうしたPCB被害中心の油症認定基準を覆すもので、国会の場で、ダイオキシンが主原因であることが初めて明確になった。油症医療恒久救済対策協議会の矢野忠義会長は「坂口大臣の答弁は、歴史的な大英断だった」と評価。全国統一民事訴訟の終結後、終わったはずの同事件は、ダイオキシン被害として再注目されることに。救済の光が差し込んだ瞬間だった。
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 坂口厚労相の答弁後、山下氏は直ちに党ダイオキシン対策本部(田端正広本部長=衆院衆院議員)と連携。田端氏は2002年2月、矢野会長らとともに、福岡市や長崎県玉之浦町(現五島市)などに住む被害者から聞き取り調査を実施した。そこで目にしたのは、事件発生から30年以上経た今も、根本的治療法がないままに病気を抱え、自殺や離婚などの深刻な状況に追い込まれている被害者の姿だった。
 「何とかしなければ」。田端氏らは、その後、国会で認定基準の見直しなどを繰り返し要望。04年9月、ついに認定診断基準にPCDFの血中濃度を追加させた。同12月、新たな診断基準の下で患者認定された五島市の古木武次さんは、「坂口答弁がなければ、私は闇に葬り去られたままだった。坂口さん、公明党に本当に感謝している」と話す。

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