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教育改革の視点(私見)
2000年9月22日
【教育事業の位置づけ】
1.「人生のための教育」から「教育のための人生」へ
人生の目的を何に置くかは、人間として生を受けた一人一人に課せられた永遠に探求すべきテーマである。衣食住が充足され、物質的な目標が達成さ
れつつある成熟社会を迎えた今日、生き方そのものが厳しく問われる時代になってきている。
本来動物は、激しい生存競争の中で後継世代を育て上げることを、親として死守すべき課題にしていると言えないだろうか。「生命がけの子育て」、まさに後継者育成を最大事業としているということだ。
他方、人間という動物は、この事業の優先順位を社会の進歩とともに、どんどん低くしてきたと言えないだろうか。快適な生活を求める中で、最も基本的な後継者育成を中心部分から周辺に追いやってきたのではないか。生き方の原点が問われる今日、今一度、後継者育成をまさに自身の最大事業として捉え、位置づける必要があるのではないか。心の空洞化が拡大するなかで蔵の財より、地位の財より、最も大事な心の財こそ、人間と人間の関係、即ち、子育て事業の達成であるという生き方、言いかえれば「我が子を自身が感動する大きな人間に育てることができた」と言えるような生き方が求められているのではないかと考える。
2.「社会のための教育」から「教育のための社会」へ
後継者育成を一人一人の人間としてだけでなく社会としても最重要の事業であるとの共通理解の拡がった社会こそ「教育のための社会」である。
社会の手段から、社会の目的へ「教育」活動を捉え直すということである。
【めざすべき人間像】
「才能ある畜生」から「有徳の人間」へ
1942年、ナチスドイツによるユダヤ人絶滅計画が、ある会議で決定された。 その会議に出席した14人のメンバーのうち、過半数を超える8人が博士号をもつ学者であった。このことはモラルなき教育の恐ろしさを示してあまりある。
何のための教育か、が今あらためて問われる時代である。戦後日本は、知識偏重社会を築いてきたと言えないだろうか。学校で優位性のある教科は知識中心の主要五科目であり、スポーツ、芸術教科はほとんど軽視されてきた。家の外で「遊ぶ」子どもは叱られ、机の前で「勉強」する子どもはほめられてきた。外で遊ぶことも偉大な人格陶冶に繋がる勉強である、という意識転換が大人に求められる時代を迎えている。
【 触発力、感化力こそ教育の中心】
―偉大な教育者は触発力に富んだ人―
釈尊もソクラテスもキリストも書物は残さなかった。一人一人の人間、そして少人数との対話のなかで、人間の師匠として永遠に残る存在感を示した。
ソクラテスは言う。「シビレエイは自身がシビれているからこそ、相手をしびれさせることができる」と。自身の触発力なしに、他者に影響力を及ぼすことはできない。ことばや権威で人を感動させたり、人を育てることはできない。特に道徳教育は教材やことばによる指導ではできないだけでなく、反発をもたらすばかりである。道徳教育は触発力、感化力によってはじめて達成できる。
【 学校依存主義からの脱却】
戦後日本の教育は家庭・地域から学校へ大きく偏る方向で展開されてきたのではないか。自身が育てるというより、良い学校へ入学させることが親の使命、のような学校依存の在り方が家庭、地域の教育力を低下させ、結局、学校崩壊をもたらしたのではないか。
「子どもの教育は第一義的には両親である」との原点に戻ることが今、求められている。